俗人の白日夢
一週間。俺がこのわけの分からない状況に陥ってから一週間が経った。時の流れなんて早いもんだ。それが慣れない肉体労働に従事する一日なら尚更、食事をとって仕事をするだけで疲れて一日が終わる。徐々に慣れてきたとはいえ、俺はまだこの船上生活に順応してはいなかった。それはそうだ。一人きりの気ままなサラリーマン人生から一変、海の上の…しかも大所帯での海賊ライフに変貌を遂げたのだから。

そしてその中で俺が一番耐え難かったのが、就寝環境である。生まれてこの方ハンモックでなど寝たことがない上に、この大所帯。自分のことを繊細だと思ったことはないが、よく知りもしない人間が大勢詰まった部屋の中でゆらゆら揺れる網に乗って眠ることが俺にはどうしても慣れなかった。専ら夜は書庫に篭るか、ともすれば疲れてそこらへんで意識を失って大部屋に運ばれるかのいずれかだ。そして寝こけた俺を運ぶのは大概、力のあるベポだった。


「名前、眠いの?」


天気のいい午後、シャチ達と今日の当番である食材集めの為に船縁で釣り糸を垂らしていた俺は、ベポの声にハッとして竿を引いた。一瞬手応えを感じたものの、不用意に餌を引いてしまったためふつ、と重みがなくなり俺は何も掛かっていない疑似餌を引き上げた。どうやら、逃げられたようである。


「すまん、ぼうっとしてた」


そう言ってベポを振り返ると彼は「残念」と言って俺の隣に腰を下ろした。ベポの分少し端へ寄って再び海へ釣り針を投げ込む。当たりはあるものの未だ釣り上げられていないので、次は何としても獲りたいものだ。


「釣れてる?」

「いや、あんまり…釣りは苦手みたいだ」


海水だけが入ったバケツをチラリと見やって苦笑を浮かべる。ベポはくるりと首を傾けて海を見つめた。魚影を見ることでも出来るのだろうか。


「大っきいのがいるね」


水底を見つめてそう呟くベポに習って海面を見る。しかし俺には深く青い波がうねっている様しか分からなかった。ベポの視線を追ってさり気なくそちらの方に竿を寄せる。


「でかいのが掛かったらベポにあげるよ」

「本当!?」


こちらを振り向いたベポが真っ黒な瞳をキラキラと輝かせる。それに微笑ましい思いで笑みを浮かべて頷いた。ベポが嬉しそうに顔を綻ばせる。これは悲しませられないな。そんなことを考えて竿を握る手に力を込めた。

すると丁度竿を担いでこちらに向かって歩いていたシャチが俺を見てポカンと口を開ける。


「名前、今笑ったな?」


その言葉にはて、と疑問符を浮かべる。まあ、笑っただろう。ベポが可愛かったから。


「まぁ…」

「やっぱり!そうだよな!名前が笑うの久しぶりじゃねぇ?前は毎日のようにへらへらデレデレしてたのにさ」


そういえば、そうかもしれない。この状況に陥って一週間目にして漸く、少し余裕が出来てきたということだろうか。何にせよ右も左も分からない状況から一応衣食住は確保され、少なくとも死にはしない生活を送れているのだ。心にゆとりも生まれてきたのかもしれない。


「ベポ、お前なんかしたのか?」


シャチがベポを見上げてそう問い掛ける。ベポは腕を組んで少し考え込んだあとで「おれたち仲良しだから!」と答えた。


「仲良し?そういえば確かに記憶喪失になってから名前がベポに突っかかることもなくなったしなァ」

「突っかかる?」


俺が竿を片手に疑問符を浮かべると、シャチは笑いながらこちらを見つめた。


「ベポはキャプテンのお気に入りだから!ずるい羨ましいっつって良く突っかかってたんだよ。なあ、ベポ」

「その節はすいませんでした…」


ベポが落ち込んだ様子で項垂れる。そんなベポを見てシャチは「打たれ弱ッ!」と声を上げた。何とも歪みない過去の"名前"に俺は辟易として息をつく。


「前のことは知らないけど、ベポことは好きだぞ」


そう言ってベポの頬を軽く撫でる。するとベポは「おれも!名前のこと好きだよ!」と目を輝かせた。元気を取り戻したベポに俺は目を細める。


ニコニコと嬉しそうな笑顔を浮かべるベポに名前も表情を緩めて竿に視線を戻す。ぽつぽつと会話を続ける彼らを遠くから見つめる視線があったことを、彼らは知らない。



二足の獣に溶けてゆく


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