読書が一区切りついたので何となく談話室へ足を運んだ。扉を開けて中に入るとテーブルの傍に佇んでいたベポが俺の姿を見つけて顔を上げる。
「あ、キャプテン!」
そのテーブルに伏せているのは名前である。最近記憶喪失やら何やらで話題のクルーだ。
「名前ね、洗濯物頑張ったみたい。疲れて寝ちゃった」
そう言ってベポは鼻先に乗っかっていた名前の腕を退けた。恐らく、直前までベポのことを撫でていたのだろう。力を失った腕はだらりとしていて、まるで死体のようだ。
この目の前で死んだように眠っている男が豹変したのは、つい先日の話だ。以前のこいつは口を開けば「愛してる」だの「好きだ」だの「キャプテンのパンツ下さい」だの、そりゃあ鬱陶しい男だった。戦闘では中々使えるから重宝しているものの、それがなかったら海に放り出しているところである。しかし、ある日スコンとほとんどの記憶を失ったかと思うと、名前は驚くほどまともになった。いや、それでも一般的なまともからしたら随分とかけ離れているのだろうが、それでも俺から見たら幾分かマシになったのだ。ペンギンやシャチ、ましてやベポのことまで忘れてしまったようだが顔を合わせるたびに飛びかかってくることがなくなった。毎朝部屋の前で待ち伏せられてクソみてぇな愛の言葉を吐かれることも、シャワー中に乱入してこようとすることもない。それは非常に清々しいことだった。心底煩わしいと思っていた事が、一気に払拭されたのだ。正直、名前の豹変は俺にとっては好都合だった。…だが。
そこまで考えて俺は名前を見下ろす。懇々と眠り込んでいる男の顔は、確かにノースブルーから俺に着いて海に出てきたクルーのものだ。しかし、その面に浮かべる表情や仕草は、まるで違う。
生来の名前は随分と子供っぽい男だった。その喜怒哀楽にくるくると変わる表情は実際の年齢よりも彼を若々しく見せていた。実際、ローと同じくらいの年齢にも関わらず若くみられる事は常であった。しかし、今はどうだ。
豹変してからの名前は酷く、落ち着いていた。ともすればぼんやりとすることも多く、その瞳は常に遠くを見ている。夢をみることを忘れたような、虚無的な瞳だった。その目はクルーどころかローのことすら見ていない。ペラペラとよく愛を吐いていた唇は閉ざされ、たまに開いたと思えば「帰りたい」。明確に、彼の意思が宿っているのは、その言葉のみだった。なので「何処へ?」と問い掛けた。彼の故郷はノースブルーだ。しかし、名前が望んだのは「元へ」だった。元、とはなんだ?俺に多くの愛を吐き、クルー連中のこともしっかりと記憶していた数日前のお前か?あいつは何に還元されたがっている?
理解が出来ないものや予想に反するものは、俺は好きじゃない。名前はある意味、以前以上に俺の理解し難いものに近付いていた。俺のことをトラファルガー・ローと呼び、何処かへ帰りたがる。世界地図を見て静かに瞳に絶望を写した目の前の男。お前は…。
「キャプテン?」
じっと名前を見つめていると、こちらを伺うように見やったベポが不思議そうに首を傾げる。真っ黒な目を瞬かせるベポに、沈んでいた意識を浮上させた。
「…大部屋に運んでやれ」
「アイアイ!」
ベポが「よいしょ!」と言ってテーブルに突っ伏す名前の身体を担ぎ上げる。熟睡している様子の名前は起きる気配もない。眼球が動いていないから、恐らく夢をみることはないだろう。遠ざかって行く男を見ながら、そんなことを思った。
夢を見ない男