!五年生主
!犬猿





鉢屋三郎には目の上のたんこぶがひとつある。同じ五年生の苗字名前だ。奴はドがつくほどのクソ真面目である。庄左ヱ門くらいの機転と愛嬌があればまだましだが、そんなものは一切ない。ただ融通が利かないのと冗談が通じないだけの、何の面白みもない真面目具合なのだ。

その生真面目さ故に三郎とはまさに水と油。顔を合せれば何くれと苦吟を呈されている。やれ廊下は静かにだの誰それをからかうなだの態度が不真面目だだの癇に障ることこの上ない。三郎のモットーは邪魔するものは火にくべてしまえ、である。いい加減我慢するのも嫌になってきたので、ここいらでひとつ弱みでも握ってやろうと良からぬはかりごとをする事にした。
あの生真面目にだって人には言えないようなアレソレのひとつやふたつぐらいはあるだろう。しかし調べるよりももっと愉快な方法を思いついた三郎は得意の変装術を使って事を起こしてみる事にした。だってそうだ。弱みっていうのは調べるよりも、己の手で作ってしまった方が都合がいい。

絶世の美女に惚れたと思って口説き倒したのが、実は普段説教を垂れまくっている同輩だと知ったら苗字はどんな顔をするだろう。
単純な計画だが、苗字は生真面目なだけあって成績もよく、下手なそれではすぐにバレてしまうだろうことは明白だった。高い変装の技術がなければ実現は難しいだろう。だからこそ、腕が鳴ると言ったものだ。こういった事にかける三郎の情熱は、他とは比べようもないほどだった。


持っているものの中でも上等のおしろいと紅を使っていつもの倍以上かけて顔を作り、着物も一番いいものを選んだ。それを何刻もああでもないこうでもないと吟味して、仕上げの練習台に八左ヱ門をぽうっと惚けさせてから三郎は苗字を探しに長屋を飛び出した。客人が変な場所にいると怪しまれるので、人目につかないように正門の辺りに行き苗字の姿を探す。この時間帯なら学舎の辺りに留まっているはずなので慣れないような足取りを装って訪問客のふりでそちらに行くと、ちょうど小走りに苗字が出てきたのが見えた。
あの調子は夕食の当番にでも遅れそうなんだな、と予想して素早く回り込んで建物の角に隠れる。

初対面は大事だ。角を飛び出してくるのにぶつかって、か弱さと可憐さをアピールしてやろう。きっと苗字は驚いてから申し訳ない心持ちで女に手を差し出すだろう。そうして目の前に伸びたたおやかな白指に目を剥いてから、美しく整ったかんばせに見蕩れる。そうしたらもう私の勝ち。あとは適当に調子を合わせて苗字が馬鹿をやるのを見物してやればいい。

そう計略を巡らせて、予想通り小走りのリズムで近づいてきた足音にほくそ笑むと、曲がってくる瞬間にタイミングを合わせてふらりと自然な調子で曲がり角に躍り出た。
が、予想より苗字の歩調が早くて三郎の目の前にはいっぱいに見慣れた藤色が広がった。あ、と思って苗字の顔を見上げると、奴の瞳と視線がかち合った。
あまりの間近さに一瞬我を忘れて息を飲む。は、近。

柔らかいものが唇に触れたかと思うと、続いてガチリと口に痛みが走った。
苗字と強か額をぶつけて、その場に尻餅をつく。辛うじて受け身をとらずにいれたことに胸を撫で下ろすと、続いてハッとして自分の唇に触れた。今回の変装はモデルがいないので、口元から顎にかけては自前に化粧を施しているだけだ。口内に広がる血の味に、三郎は驚いて瞳を瞬かせた。口吸い…したな?今。

予想外だったので迂闊にもぼんやりとしていると、目の前に手のひらが差し出された。ハッとして顔を上げるとそこには険しい顔をした苗字が三郎を見下ろしている。
三郎はしまったと自分自身に苛立ちつつ無理矢理気持ちを切り替えようと努めて困った風に眉を下げて微笑んでみせた。真っ直ぐに苗字の顔を見つめると、奴の唇に自分の紅がついているのに気付く。生真面目で禁欲的な苗字に真っ赤な…今さっきまで自分についていた紅の残滓が残っているのが妙にちぐはぐで、思わず視線をそらす。
伸ばしかけた手を躊躇させているのに焦れたのか、苗字はぐいと強引に三郎の手を引いてその場に立たせると、着物についた砂塵を叩き落とし始めた。

「お怪我は?」

真面目に問い掛けられてからかう余裕もなく「ありません」と小さな声で答える。
なんとか立て直そうとぐるぐる思考を巡らせる三郎に、苗字はぐぐうと眉を寄せると真剣な表情で問い掛けてきた。

「失礼ですが、お名前を伺っても?あとどちらの家の方でしょうか?お家の方…旦那さんはいらっしゃいますか?」

「あ…私はその。弟に会いにいく所でして。結婚は、しておりません。家はその、遠くの山裾なので、ご存じないかと」

たどたどしい口調で考えていた設定をなぞりながら答える。考えていたことばかりで良かった、と胸を撫で下ろしていると「ご亭主はおられないのですか」と呟いた苗字がぎゅうと三郎の手を握った。ぎょっとして苗字の顔を見上げる。

「私は苗字名前と申します。先ほど、事故ではありましたがあなたに触れてしまいました。本当に申し訳ない!不躾で不肖ではありますが、責任はきっちり取るつもりです。お姉さん」

「は、はい」

こんなに間近でこいつの顔を見たことがない。まっすぐにこちらを見つめる瞳を見たことがない。
気圧されるままに苗字を見つめる。苗字は真剣だった。こいつはいつだって真面目だ。

「今はまだ学生の身分ですが、卒業した暁には必ずあなたを娶ります。あなたさえ良ければ。どうかそれを、了承して頂けますか?」

きゅん。

高鳴った自分の胸に三郎はぎょっとして息を詰まらせる。

ちょっと待て!!なんだ今の!きゅんって!そんなわけないだろ!おいしっかりしろ鉢屋三郎!
ぐらぐら揺れる頭で必死に弁解の類いを考えるが、どれもどこか言い訳めいた色を帯びていて退路のなさに心中で焦り始める。

当の苗字は「嫌ならご両親に頭を下げに参ります」とか「あなたのせいじゃありません。本当に申し訳ない」とか色々言っているが、三郎の頭の中は今それどころではない。今すぐに苗字にバレないようにこの場から逃げ出すにはどうすればいいのか。ただの嫌な奴から急速に変化しつつある印象をどうやって押しとどめればいいのか。

美しい女の面の下で苗字にちょっかいを出そうとしたことを、今さら後悔してももう遅いのだ。






藪をつついて蛇を出す



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