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▼ アリスとクロエ2

  アリス。初めて耳にしたときは、その名前が指しているのは女の子だと思っていた。
  だが、その認識はすぐに覆された。アリスに抱かれたという女の子の話を至るところで耳にしたからだ。今までの恋人とのセックスなんて比べ物にならなかった、と。夢みたいな時間だった、と。女性同士のセックスというものがこの世に存在していることは無論知っているが、誰もがこぞってその話をするのだから、アリスは男なのだろう、と僕は結論づけたわけである。
  アリスは男だ。しかも筋金入りの女好き。たった一晩で女の子を虜にしてしまうなんて、一体どんな男だろう。そう思って、友人にその存在を尋ねてみた。アリスとはどんな奴なのかと。友人は「あぁ、有栖ね」と納得したような声で頷いた後、あいつだよとたまたま食堂でうどんを啜っていた一人の男を指さした。
  アリスもとい有栖の容貌は、思ったほど派手ではなかった。黒髪で眼鏡をかけた、背の高い男だった。いつも飄々としていて、何を考えているかわからないような男だ。専攻は生物学だそうで、それから何度か、学内を白衣で歩いているのを見かけたことがある。生物学はセックスに応用が利くのかもしれない、と全く根拠の無い推論をしたりもした。
  有栖には才能があるのだろう。女性を虜にするセックスの才能。それから、人を惹きつける不思議な雰囲気がある。だから、有栖の周りには人が絶えない。彼に対して抱いたのは、純粋に下世話な好奇心、ただそれだけだった。
  だから、有栖がもしも女の子なら、どんなに良かったことか、などと思う日がくるなんて、予想もしていなかった。
「ごめんなさい」
  当時付き合っていたのは、入学してすぐに知り合った、一つ上の先輩だった。学内のミスコンにも出たことがあるような、才色兼備という言葉がよく似合う人だ。交際は順調だったと思う。
  彼女から別れを切り出されたのは、まさに青天の霹靂だった。
「理由を教えて欲しい」
  僕の質問に、彼女は少し答えを躊躇した。それは彼女なりの優しさだった。今思えば、こんなことを尋ねるべきではなかったのだ。
  彼女の返答は、僕に深い深い傷跡を残すこととなる。
「……類くんって童貞?」
「は?」
  僕は童貞ではないし、そもそも彼女とは既に何度かセックスをしたことがある。
「ごめん。正直、苦痛でしかなかった」
  質問の意味がわからず固まる僕に、彼女は滔々と打ち明けた。
  僕の顔も性格も好きだ。だから付き合おうと思ったし、こうして付き合っているし、その気持ち自体は嘘ではない。
  ただ唯一、どうしてもセックスだけが耐えられなかったと。どこをどう触られても気持ちいいどころの話ではなく、全く感じない。それを悟られまいとするための演技にも疲れ果ててしまったと。
  だから、アリスに心が揺らいでしまったと。
  アリス。その名前が出てきたところで僕は彼女を一旦制した。なんだって?
「アリスって、あの有栖?」
「そう。生物学部の、有栖潤くん」
「浮気したの?」
「ごめん。本当にごめんなさい」
「僕と別れて有栖と付き合いたいってこと?」
  彼女が頷いたので、僕は彼女に今すぐここに有栖を呼べと言った。そして暫くして、有栖は僕の前にのこのこと現れた。
  殺伐とした空気の中向き合う僕と彼女を目の当たりにして、全てを察したのだろう。有栖は僕の方を真っ直ぐに見て、頭を下げた。
「ごめん。申し訳ない」
  彼女に僕という存在がいたことを、有栖はきっと知らなかった。そんなことはわかっている。わかっているが、僕は彼女のことも、有栖のことも、許せなかった。二度と顔も見たくなかった。それが彼に抱いた、二つ目の感情だ。
  最初は男としての意地だったと思う。彼女を寝取られた。しかも理由が理由だ。自分のセックスが下手すぎるせいで浮気されただなんて、プライドが許さなかった。何もかもが恵まれた人生において、それが初めての挫折と言ってもいい。
  だから僕は物理的に挫折の原因を遠ざけた。二度と顔を見せるなという僕の言葉を、有栖自身も律儀に守り続けた。それなのに、アリスという名前を耳にする機会は一向に減らない。アリスとセックスをしたという女の子の話を聞く度、有栖に対する印象はどんどん悪くなる。あいつの性欲はなんなんだ。懲りてないのか。懲りろよ。
  アリスアリスアリス。うるさい。二度と関わりたくないと思っているのに、それすらも許されない。僕はあれ以来誰も抱けなくなってしまったのに、あいつは今日も誰かとセックスをしている。
  有栖の声を覚えている。想像よりも低くて、柔らかい声だった。眼鏡の奥の瞳は切れ長。唇は少し大きめで、それでいて薄い。肌が透き通るように白く、顔色が悪く見えるのはそのせいだろう。遠くから見てもわかる、不思議な雰囲気のある男だ。
「……」
  あの声で、愛を囁くのだろうか。あの口で、指で、どんな風に愛撫をするのだろうか。女の子たちは口を揃えて「あんな幸せ、忘れられるわけない」と言ったが、有栖が女の子を抱いているなんて、想像もつかなかった。
  あんなに憎んでいたのに、二度と見たくもないと思っていたのに、有栖を見る度に想像した。有栖が誰かを抱くところを。
  普段飄々としている彼が、女性の身体を触って、悦ばせて、それで興奮しているなんて。自らの性器を勃たせて、挿入して、射精をしているなんて。信じられなかった。
  だが、僕が頑なに信じずとも事実は変わらない。有栖がその手で抱いた女の子は、そこらにたくさん存在するのだ。
  気がつけば、僕の目は有栖を追っていた。そして嫌でも自覚した。
  一夜だって共にしたことは無いのに、僕はいつの間にか有栖の虜になっていたのだ。



「黒江、口開けて」
  有栖の低い声が入り込んでくる。小さく開いた唇の隙間を舌でこじ開けられた。
「……ッ、ん、……ん、……っ」
  頭の芯がぼうっとして、何も考えられなくなる。瞳が潤んで視界が揺れた。勝手に声まで漏れる。一体どこをどうしているのか、何故こんなに気持ちがいいのか、実際にされる側になってもさっぱりわからない。
「は、ぁ……っ、はぁ、は……っ」
「黒江」
  僕を見る有栖の視線が、熱を帯びていた。想像なんて比べ物にならない。視線だけで駄目になる。僕は逃げるように有栖の肩口に顔を伏せた。
「黒江?」
「お前は触るな」
「どうして」
「これ以上はまだ許してない」
「キスは許すのに、抱きしめるのはアウト?」
「……キスだって許したつもりはない」
  有栖は僕を好きだという。何故かはわからない。女好きのくせに、不自由していないくせに、どうしてわざわざ僕を。
  答えは簡単だ。刷り込み。僕と同じ。
  何度も何度も名前を耳にする。嫌でもその話を聞かされる。僕と有栖は、お互いを意識せざるを得なかった。強制と言ってもいい。
「でもお前は俺が好きだ」
「それが何だ」
「本気で俺を拒めない」
「おい」
  有栖が僕をきつく抱きしめた。全身を包み込むような強い力を、拒むより先に身体が全て許してしまう。
「黒江」
「……有栖」
  有栖が好きだ。僕の彼女を抱いたことはまだ許せないし今後も許すことはない。でも、僕は有栖を好きになってしまった。
「お前な、こういうことするならもう……」
「もう、何?別れる?」
「そもそも付き合ってない!」
「何言ってんの」
「う……」
  有栖の唇が首筋を這う。服の裾から手が入ってきて、肌を優しく撫でた。
「黒江は、俺が他の奴とこういうことしてもいいって?」
──いいわけないだろ。
「……そんなことしたら、お前の生殖器を切り取ってやる」
  憎しみを込めた僕の一言を聞いて、有栖が笑った。
「物騒だな」
「お前は物理的に不能にするくらいじゃないと懲りなさそうだから」
「これがないと、ゆくゆく困るのは黒江の方だと思うけど」
「僕をそこらの女と一緒にするなって言ってるだろ!」
「してない。してたらもうとっくに抱いてる」
「……っ」
  ぐ、と息を詰めた俺の首に、また有栖が口付けた。そしてそのまま、じゅうと音を立てて肌を吸われる。
「あ、いやだ、やめろ」
「いつならいい?」
「まだ、駄目だ……っ」
「待つのにも限界がある」
  知っている。有栖は我慢が嫌いだ。我慢なんかせず、気の赴くままに誰かを抱いてきた。だからあんなに沢山、嫌というほどこいつの名前を聞かされた。
「黒江を抱きたい」
「……わかってる」
  わかっているから、もう少し。
「もう少し、準備が終わるまで待て」
「準備って何」
「……」
「まさかとは思うけど、俺にも許してないことを別の誰かに明け渡したりしていないよな」
「そのまさかだって言ったらどうする?」
  有栖が笑う。先程とは違う、冷えた笑みだった。
「一生許さない」
──それはこっちの台詞だ。




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