「甘ぇ」
先生が眉を顰めて唇を離した。ふわふわと落ち着かない頭を必死で働かせて返事をする。
「……えーと、チョコ、さっきまで食ってたから……」
先生の瞳が壁にかかったカレンダーを見た。俺ははっと息を呑む。
「ちが……っ、バレンタインとか、そういうことじゃなくて」
「白々しいな」
「本当だって!」
「誘導尋問か?」
「違うっつってんだろ!」
だって先生、甘いの嫌いじゃん。俺だってそんくらいのことはわかってるっつーの。いや、したいけどさ。イベントごと。でも先生はそういうのもあんま好きじゃないし。
「萎えた」
「は!?」
先生は身を離すと、そのままキッチンへと向かった。冷蔵庫から水を取りだして飲んでいる。
当て付けか? 人とキスした後にムカつくな。もういい。全部食ってやる。
鞄の中からチョコレートの箱を取りだしてぱくぱくと口の中に放り込んだ。
「……おい」
「なんだよ! 萎えたんだろ!」
「デブるぞ」
「うっせぇ!」
先生がペットボトルの水を手に持って戻ってくる。またさっきみたいに向かい側に座ったかと思えば、後頭部を掴まれた。
「……っ」
あ、これは。気がつくのと同時に唇がくっつく。
「ん……っ、ちょ、んむ」
まだ食ってる途中なのにと突っぱねるも、構わず舌を入れられた。
「ぁ……ッ」
口の中にあったチョコレートをとられてしまう。ちゅぱ、と音を立てて唇が離れた。
先生は自分の口の端を指で拭い、一言呟く。
「さっきのと味が違う」
「……っ」
──くっそ、くっそこの大人……!!
ずるいずるいずるい。顔が熱い。どうしてくれるんだ。俺は今すぐにでも叫び出したい気持ちになる。
「あ……味が……いろいろ、ある、から……」
がしかし、口から出る声はあまりにもか細くて頼りないものだった。きっと今、俺はすごく情けない顔をしている。
「ボソボソ喋るな。薄気味悪い」
誰のせいだ。
「今のは?」
「……た、たぶん、ピスタチオ……」
「じゃあこれ」
「これは……ルビーチョコ」
「ルビー?なんだそれ。苺じゃないのか」
チョコを指差す手の先まで赤く染まっているのに気がついて、咄嗟に引っ込めた。恥ずかしい。先生がますます不審そうな顔をして見てくる。
「なんなんだよお前は」
「……先生こそなんなんだよ。クソ」
「はぁ?何キレてんだ」
「キレてねぇ!」
もう無理。無理だろこんなん。俺は力いっぱい先生の体に抱きついた。先生は俺がそうするのをわかっていたみたいに動じない。
「もう一回」
「なにが」
「今の、チョコ食べてキスするやつ」
「しない。どけ」
「するまでどかない」
「クソガキ……」
先生は俺に抱きつかれたまま、諦めてまた水を飲んだ。こく、こく、と静かに動く喉元がすぐ近くで見える。喉の真ん中の、尖ったところ。喉仏。
「……」
引き寄せられるようにそこに口付けると、先生が盛大に水を吹き出した。
「せ、先生!?」
「げほ……っ、げほっ、てめ、何を……っ」
「や、なんか……こう、むらっとしてつい……」
「ふざけんな、ごほ……ッ、げほ……っ」
「ごめんマジでごめん」
ひとしきり咳き込んだ後、先生は俺を膝詰めで説教した。わかってはいたが怖かった。デコピンされた部分がヒリヒリと痛む。でもそれで済んだだけ今回はちょっと優しい。
「おい、さっきの。ルビーチョコ」
「ルビーチョコ?」
「初めて見た。食ってみる」
「ごめんもう食べた」
「……」
ルビーチョコ、そんなに興味あったのか。
次の日こっそり学校でプレゼントしたが、先生は途中でギブアップしたので、結局俺の手元に戻ってきた。
「苺と何が違うんだ……」
「全然違ぇよ」
返されたとはいえ、意図せずバレンタインが実行できたしこれはこれでまぁいいか。
「んむ」
余ったルビーチョコの粒を口の中に放り込むと、先生が何故かまたキスしてくる。
「おえ……甘……」
「……何で嫌いなのにわざわざ食ってるときにするんだよ」
なんとなく、と先生は言った。
なんとなくで吐きそうな顔される俺の気持ち考えたことあんのかよ。いや、この人にとってはそんなこと、ミジンコ以下のちっぽけなことだ。認識されているのかどうかも怪しい。
「……」
「なんだよ」
「アンタみたいな人、こんなに好きなの俺くらいだろうな、と思って」
「お前みたいなクソガキを好きなのも俺くらいだろうな」
「あーそうです……か……」
──いま、なんて?