「花火がしたい」
ぼんやりと窓の外を眺めながら、坊ちゃんがそう呟いたのが聞こえました。
「花火、ですか」
「線香花火がいい」
「手配しましょう」
「いい。自分で買ってくる。今日したいんだ」
「……花火がどこに売られているかご存じなんですか?」
「コンビニ」
貴方、ただ行ってみたいだけでしょう。
「ホームセンターとかの方が種類豊富な気が……」
「では、そこに行く」
「あっ!待ってください!」
すたすたと長い脚で歩く彼を慌てて追いかけます。
「私も行きます」
坊ちゃんは振り返り、にんまりと笑みを浮かべて言いました。
「デートだな」
*
「どうして急に花火なんですか?」
庭の隅でしゃがみこみ、二人向き合いながら線香花火を手にしました。
「夏といえば花火だろう」
パチパチと小さな音を立てて弾けるのを、彼の目が静かに見つめています。
「線香花火だけで良かったんですか?他の手持ち花火は……」
暗闇の中、花火の光に照らされた坊ちゃんの顔が溜息が出るほど綺麗だったので、私はつい、花火よりもこちらを眺めていたいなどと一人考えていました。
「今日は質問ばかりだな」
「あ……すみません。嫌でしたか」
「お前にされて嫌なことなんて、いくつかしかないよ」
「……いくつかはあるんですね」
「そりゃあるさ」
段々と膨らんでいく火の玉を落とさないよう、揺らさないよう、しっかりと持ち手を指で握ります。
「お前が傍にいなくなること。僕と離れようとすること」
「……坊ちゃん」
「お前が僕以外のものになること」
「それは、ありえません」
「わかっている」
ぽとり、と玉が地面に落ちてしまいました。どんなに慎重に扱っていても、最後にはこうして燃え尽きてしまうのが花火というものです。
「……私も」
私も、同じことが怖いと言ったら、彼はどう思うのでしょう。
ありえないとわかっているのに、想像しては怖くなる。
でも、想像せずにはいられない。
もし万が一、その「ありえない」が現実になったときに、耐えられるように。元に戻れるように。
心を自ら傷つけて、少しずつ砕いて、強くする。自傷とも呼べる行為を、もう幾度も繰り返しています。
「伊原」
「はい」
坊ちゃんがまた新しい花火に火をつけながら、私の名前を呼びました。私も、新たな花火を手に取ります。
「お前と僕が一緒にいるための努力を、僕は怠らないよ」
「はい。私も」
二人願うことは同じです。彼が私をどんなに想ってくれているか、どんな風に想ってくれているか、それを私は理解しています。
「坊ちゃん」
「なんだ」
「苦しいです」
「奇遇だな。僕もだ」
こういう話をするといつも、胸の奥がじくじくと痛みます。歯が痒くなって、ぐっと何かを噛み締めます。
もし私たちがお互いを選択しなかったとしたら。
そんな未来を想像して痛めつけられた心臓が、傷が、彼の言葉によって埋められていくのです。
「……私、線香花火がどんな花火より好きかもしれません」
「お前が好きなのは線香花火じゃない」
「どういう意味ですか?」
「お前は僕と一緒に何かをすることが好きなのであって、それが花火であろうと散歩であろうとセックスだろうと同じことだ」
同列に語らないでいただきたいものが並んでいます。
「まぁ、僕も線香花火が一番好きだが」
「……その理由は?」
坊ちゃんの顔が近づいてきて、ぴったりと額が合わさります。
「こうして近づくことができるから、だ」
「……なるほど」
「こうしてお前の体温を感じるほど近くにいられる。他の手持ち花火じゃこうはいかない」
「でもその理由だと、線香花火よりも打ち上げ花火の方が上位ではないでしょうか。空を見上げるだけなので、両手も空きますよ」
「あれは音が大きい。お前の声を聞き漏らしたくない」
それと、と坊ちゃんが言葉を続けます。
「両手が空いた方が良いというのは、抱きしめて欲しいということか?」
「そこまで言ってません」
「遠慮するな」
「駄目です。まだ花火が」
「わかっている」
「貴方こそ、今持っている分があるでしょう。危ないですよ」
「とっくに消えてしまった。ほら」
確かに、彼の手にある花火の先端には、もう何もありません。
「いいから早くしろ。お前に触れたくて仕方ないんだ」
なんて熱烈なのでしょう。動揺した私の手の中の花火が、ぽとりと地面に落ちて燃え尽きてしまいました。
あ、と声をあげようとした私の口を、彼の唇が塞ぎます。
「……っ、ん、んん」
一気に流れ込んでくるそれは、紛れもない「幸福」でした。
「ん……ぁ、っ……」
差し込まれた舌が口内を優しく愛撫し、外だというのに声を我慢することができません。
こんな場所で、みっともないことはわかっているのに。彼の手に触れられて、愛されて、全身が歓喜で打ち震えているのがわかります。
「はぁ……っ」
気がつけば地面に膝をつき、彼にしがみついていました。
つ、と口の間を伝う糸。濡れた私の唇を、彼の親指が拭います。
「デートもできたし、花火もしたし、残るはあと一つだけだな」
「ひとつ」
「お前が好きなセックスだ」
「……私だけですか」
「無論。愚問。僕も好きだよ」
艶っぽく湿った彼の唇に、私の視線は釘付けになりました。
「二人で大輪の花を打ち上げよう」
「……」
残念です。どんなに見目麗しくても台無しです。
彼の言うことはいつも、私のため息を誘います。
「その顔はどういう感情なんだ」
「謹んで遠慮申し上げます、の顔です」
「さて、そろそろ片付けをして部屋に向かおうか」
「人の話を聞いてください」
それでも、私が彼から目を逸らすことができないのは、惚れた弱みというものなのでしょう。