ここから始まる
『はぁ……っ…………は、…………っ!』

 走る。走る。走る。走る走る走る。
 足がもつれて転びそうになった。起き上がってまた走る。満足に呼吸ができなくて、喉がからからになって胸と肺が張り裂けそうに痛い。小さい身体で一生懸命走るけど後ろから来た誰かわからない男達にあっという間に追い付かれた。

『あ、っ……!?』

 腕を掴まれた。
 体勢が崩れて地面に転がる。体中を擦り剥いて、じんじんと痛みが広がっていく。あまりの痛さに涙がでそうになる。でも堪える。
 男達は忌々しそうに舌打ちした。

『手間かけさせやがって……!』
『ガキの癖にちょこまか逃げやがって……面倒だ、ここで処分しちまおう』
『ああ、それがいいな』

 そんな会話が耳に入って、背筋が凍った。
 じゃき、と頭に冷たい鉄の塊を押し当てられる。
 撃たれる、やだ、やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ、死にたくない死にたくない。

『え、…………?』

 一瞬、だった。
 頭が真っ白になって。気づけば数人の男達は目の前で無惨に肉塊と化していた。

 ぼくが、……ころしたの?

 血は着いてないけど小さな手に握られているのは、恐らくは男達が持っていたのであろう無骨なサバイバルナイフ。
 ぜんぜん覚えがないけど自分が殺したのだろうか。自分が殺した。生きてるのは自分以外に居ない。消去法で該当するのは自分だけだ。

『ぼくしか、いない、よね』

 確認の為に呟いてみる。やっぱり生きてるのは自分だけ。
 そこで、気づいた。
 人を殺したというのにぜんぜん罪悪感を感じてなくて、他人事のようにすんなりその事実を受け入れていることに。
 そう、動機もなく道理もなく理由もなく利益もなく目的もなく默想もなく原因もなく幻想もなく因縁もなく印象もなく清算もなく正当もなく狂気もなく興味もなく命題もなく明解もなく義侠もなく疑問もなく獲得もなく確実もなく暴走もなく謀略もなく尊厳もなく損失もなく崇拝もなく数奇もなく妄執もなく蒙昧もなく欠落もなく結論もなく懊悩もなく応変もなく益体もなく約束もなく正解もなく成功もなく執着もなく終焉もなく根拠もなく困惑もなく負荷もなく風情もなく決別もなく潔癖もなく超越もなく凋落もなく遠慮もなく演摘もなく努力もなく度量もなく帰結もなく基盤もなく霧消もなく矛盾もなく独善もなく毒考もなく傾向もなく敬愛もなく打算もなく妥協もなく煩悶もなく反省もなく誠実もなく静粛もなく瞠目もなく撞着もなく極端もなく曲解もなく偏見もなく変哲もなく安堵もなく暗澹もなく哀楽もなく曖昧もなく相談もなく騒動もなく喝采もなく葛藤もなく構想もなく考察もなく徹底もなく撤退もなく計算もなく契約もなく無念もなく夢幻もなく容赦もなく幼心もなく資料もなく試練もなく寂寛もなく責任もなく誹謗もなく疲労もなく体裁もなく抵抗もなく究竟もなく屈託もなく技量もなく欺瞞もなく要望もなく様式もなく選別もなく先例もなく検分もなく険悪もなく題材もなく代案もなく混沌もなく懇念もなく禁忌もなく緊迫もなく倦怠もなく権限もなく気配もなく外連もなく躊躇もなく中庸もなく敷衍もなく不安もなく解説もなく回避もなく規則もなく企画もなく凌辱もなく良識もなく虚栄もなく拒絶もなく防備もなく忘却もなく踏襲もなく到達もなく娯楽もなく誤解もなく惰性もなく堕落もなく叱声もなく失墜もなく嫌悪もなく見解もなく感情もなく癇癪もなく意見もなく威厳もなく境地もなく恐怖もなく作為もなく策略もなく嗜好もなく思想もなく。

 人を殺した。

 悪いことなのにぜんぜん罪悪感を感じない。まるで、もとからそうであったかのように。

『あ、……これ、どうしよう……』

 他人事のようにぽつりと呟いた。
 服は綺麗なままだけど、流石に死体はそうもいかない。誰かに見つかりでもしたら冗談じゃなくほんとにまずいことになる。
 どうしようとうんうん唸り始めたところでじゃり、と地面を踏む音が聞こえた。

『!』

 見つかったらまずい、けどどうしよう、いい言い訳が思いつかない。疑われはしないだろうけど絶対不審に思われる。──最悪、殺そうか。
 叫ぶような様子があったらすぐに殺そうと静かに身構えたところで、物音がしたところから声が聞こえた。

『おやおや、零崎の気配がしたから来てみれば……新しい家賊がいるじゃあないか! しかも妹ときた。きみ、今すぐ私の妹にならないかい?!』

 ──変態だ。変態さんがいる。

 針金細工のような男は呆然と立ち尽くす少女に向かって言い放つ。

 ──……でも、なんだろう、目の前の男の人を見てると、なんだかすごく安心する……──

 困惑した様子の少女に、針金細工の男はにこりと笑って口を開いた。

『おっと、自己紹介がまだだったね、私は零崎双識。そうだな、言うなれば……きみのお兄ちゃんといったところだ』

『おにい……ちゃん? ぼくの?』

 舌が回らない拙い口調でこてんと首を傾げて繰り返した少女に、男──零崎双識はぐはっと悶える。今にも鼻や口から赤い液体が噴出してきそうだ。

『そうだよ、私ときみは家賊だ。流血の繋がりのね。どうだい、一緒に来ないかい?』

『いっしょに……』

 少し考え込む。
 ──あんな人達といるより、この人といたほうが、ずっと楽しいかもしれない。それに、この人の傍は、なんだかとっても安心できて心地良い……──

『うん、いっしょにいく!』

 にこっと笑った少女に再び双識が悶える。
 今度は地面に突っ伏している。正直とっても気持ち悪い。
 何かを察した少女が、すすす、と一歩後退さった時。ふと双識が気づいたように一言。

『おっと、きみの名前を聞いていなかったね。それに零崎名も決めないと……』

『……ぜろざきめい?』

『そう、私もきみも“殺し名序列三位 零崎一賊”の一員なんだ』

『ころしな? ぜろざきいちぞく?』

『それは追々説明してあげよう。まずはきみの名前を教えてくれないかな?』

 未だ頭上に?マークが浮かんだままの少女であったが、教えてくれるのならば教えてくれるのだろうと割り切って、双識を見上げながら名を告げた。

『藍……沢田、藍』

『成る程……藍ちゃんか。いい名前だ。実に女の子らしい。ふむ……そうだ、零崎名は藍織……零崎藍織だ。どうだい?』

『藍……織』

 与えられた名前を小さく口の中で反芻して、藍は嬉しそうに顔を綻ばせた。
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