いろいろ | ナノ


▼ I love you.

「月が綺麗ですね」
 突然上から降ってきたその言葉に名前はがばりと顔を上げ、辺りを見回す。先ほど図書室閉館十五分前のチャイムが鳴り、生徒は皆読んでいる本を借りるべく受付に殺到したはずだった。受付からも出入口からも遠く離れた窓際の席に座っているのはやはり名前一人で、しかしその横には一人の男子生徒が立っている。
 一体いつから、そもそも彼は誰で、今なんと言ったのか。どれから聞いたものかと一度整理した頭は新たな疑問しか生み出してはくれない。窓の外を見てもまだ月は見えず、現在名前の手元で開かれている本は月関連でもなければ夏目漱石関連でもない。
「……あの」
「驚かせてすみません、黒子テツヤです。同じクラスの」
 言われてみればたしかに見覚えがある、と気づいた名前はバツが悪そうに視線をそらした。驚く先に黒子あり、という言葉は知っていたがまさか自分がそうなるとは思ってもみなかったのだ。
「うん、えっと……今日って満月なの?」
「……夏目漱石、知りませんか?」
 失礼な、と言いかけた名前だったが同じクラスの生徒に向かって「誰だお前は」と言いかけた彼女にそんな資格はない。
「その……人違い?」
「じゃないです。苗字さんに言っています」
 テンポの悪い会話がようやく粗方の疑問を片付けてくれたことに、そして最大の疑問が頭の容量いっぱいに鎮座したことに小さく息をつく。
「この場合、私はなんて答えればいいのかな」
「僕としては“死んでもいいわ”ですかね」
「へー……意味は?」
「“わたしも”」
「却下で」
 今までの会話からそう返されることをわかっていたのだろう。大して傷付いた様子のない黒子は淡々としていて、しかしよく見れば僅かに耳が赤くなっている気がしないでもない。もう少し言葉を選ぶべきだったろうかといまさら悩み始めた名前の思考は次の言葉で完全にフリーズした。
「では友達からということで」
「……は?」
「また明日」
 遠ざかる背中。本棚を曲がったところで慌てて追いかけるがその姿はもう消えていた。あるいは見失ったと言うべきか。
「……お化けでも見た気分」
 馴染みの司書教諭に急かされながら読んでいた本を片付け、一目散に図書室を出る。廊下を走るなー、とどこかやる気の感じられない注意を背中に受けた名前は返事だけは元気よく、しかし足は止めずに駐輪場へと猛ダッシュした。
(これは罰ゲームかなにかに違いない……今日はもうさっさと寝てしまおう)
 まるで幻か何かのように消えてしまった彼の姿のように、ほんのりと赤い耳に覚えた罪悪感も消えてしまったらしい。自宅へと帰った名前はいつものように家族と食卓を囲み、風呂を済ませ、やる気の起きない宿題にたっぷり一晩使って就寝した。

 その翌日、名前は眠い目を擦りながらノートを睨んでいた。昨夜奮闘したおかげで宿題は片付いていたのだが、あいにく今日の日付は名前の出席番号。つまり、一限目の英語で和訳を発表させられるのである。
(ああ、もう……意味わかんない。こんなの訳せたら初めから学校とか必要ないのにやれ予習だ自主勉だって……教師のショクムタイマンじゃないの?)
 職務怠慢を漢字で書けない名前にそんなことを言う権利は果たしてあるのだろうか。
 ああでもないこうでもないと和訳に頭を抱える名前の席にふと影がさした。
「おはようございます」
「んー、おは……よ」
 ぽろり。落としたシャープペンシルは芯が折れた。替え芯を自宅に忘れた彼女にとってそれは貴重な二ミリで、もしかしたら中でさらに折れているかもしれないとなると貴重な一本。しかし今の彼女にとってそんなことは些細なことだった。友人に頼めばその程度いくらでも貸してもらえるものだが、同じクラスのとある男子生徒に会いたくないという願いはそう簡単に叶うものではないのだから。
「予習ですか」
「……うん」
「今日、当てられますからね」
「……うん」
「もうできました?」
「……ううん」
 なんだこの一問一答は、と思った名前だったがそのように答えているのは彼女自身である。
「……黒子くんはさ、できてたりする?」
 おそらく初めて呼んだ彼の名。気まずさから思い切ってそう訊ねてみたのだが、黒子は一転黙り込んでしまった。考えてみれば昨日告白したばかりでそもそもあまり会話をしたことのない相手に話しかけているのだ、平気そうに見えたとしても緊張くらいしているだろう。
 がやがやと賑やかな朝の教室において、まるでそこだけ別空間のように流れる沈黙。それは随分長いこと続いたようにも思え、随分短い間なのだろうとも思えた。
「……できてません」
「そっか」
 名前自身、さほど期待はしていなかった。今日の日付は自分の出席番号で、そこをスタートに後ろの席が当てられるのが恒例のため黒子が当てられるの可能性はかなり低いのである。彼が出席していると認識されるかどうかはまた別の話だが。勉強ができるという話も聞いたことがなかったので藁にもすがる思い……というやつである。
「僕の力ではできてません、が……部の先輩に訳してもらいました」
「……それさ、自分の手柄にして私に教えようとは思わなかったの?」
「思いません。あなたには嘘の僕ではなく、本当の僕を見て欲しいから」
 わざわざ先輩に和訳を頼んでいる時点でそれが自分のためだということに名前は気付いていた。それに加えてこんなことを言われてしまえば、昨日の告白を冗談や罰ゲームで済ますことなどとてももうできない。
「……ありが、とう」
 これを境に二人はよく話すようになった。話すと言っても名前は黒子を見つけることができないので、いつも話しかけるのは黒子からだが。しかし一度存在に気付けば話しているのは主に名前の方で、クラスメイトたちは彼女が独り言を言っていると心配する程である。

「そういえばさ、黒子くんって私のどこが好きなの?」
 放課後の図書室。以前は窓際の席を陣取っていた名前だったが黒子が図書委員と知ってからはカウンターに居場所を変えている。本来ならよろしくないだろう行為だが、貸出希望者が黒子を見つけられず困り果てる事態を防げること、司書教諭と仲がいいことからお目こぼし頂いている。
 黒子は開いていた文庫本を閉じると苦笑し、どうやら自分はまた何も考えず口を開いてしまったらしいと名前は慌てた。
「語弊はありますが、そういうところですかね」
「……からかってる?」
「いえ、本当に。例えば今苗字さんが読んでいる本は何ですか?」
「えっと……芥川龍之介の短編集」
「傀儡師、ですね」
「……読めたよ、うん。わかってた。全然わかってたし」
 そう主張すればするほど疑わしくなることに彼女は気付いていない。話が逸れそうだ、と思った黒子は軽く咳払いをした。
「何故その本を読もうと思ったんですか?」
「国語の授業で羅生門をやってるから。他にはどんな話書いてるのかなーって」
「つまり、そういうところです」
「どういうところだよ」
 軽くローキックをかます名前に以前のような遠慮は見られない。この短期間でよくここまでこられたものだ、と黒子は自身の努力を褒めながら三度目のローキックを受け止めた。
「苗字さんはあまり国語が得意ではないはずなのに、そうやって作者を知ろうとする」
「国語が苦手って言う必要あった? ねえ?」
「それと同じように、例え嫌いでも、苦手に感じても、まずは相手を知ろうとする。そんなところを好きになったんです」
「……聞かなきゃよかった」
 ふと見下ろせば、そこにはうずくまる名前の姿。その耳ははっきりと赤く染まっている。
「そうですか」
「……でも、聞いてよかった」
「……そうですか」
 いまさらながら図書室を見渡せば誰もおらず、このように会話に熱中していれば気だるげに形だけの注意をするだろう司書教諭もいない。そういえば、そろそろ寒くなってきたというのにようやく日の目を見たストーブが故障していたのだった……と思い出した黒子は首を傾げた。寒いはずなのに寒くない。名前が寒くないだろうことは明らかだが何故自分も? と頬に手をやった黒子は改めて、今図書室に誰もいないことを確かめ息をついた。
「……もう少しで冬休みですね」
「……WC、決勝だけ見に行ってあげる」
「いいですね、それ。いっそ表彰式だけでもいいくらいですけど」
「うわー、強気」
「……春休みが終わったら……」
 そこで口を閉じてしまった黒子。どうしたのだろうと見上げる名前に「何でもないです」と首を振ったのでそれ以上追求はしなかったが、彼女もどこかでその続きをわかっていたのかもしれない。

 そうして迎えた春休み明け。新しいクラスを確認するべく、玄関前は多くの生徒で溢れていた。特に友人たちと約束していたわけでもない名前は人の多さにうんざりしつつ、早く新しい教室に行こうと駆け寄る。
「苗字さん、おはようございます」
「うわっ! お、おはよう黒子くん……」
 毎度のことながらまったく気配のない黒子の登場に驚き、二人はそのまま一緒にクラス分けを確認しに行った。このときの名前は少しも考えていなかったのだ。自分と黒子のクラスが離れるということを。
「あ……」
 見つけた自分の名前。しかし存在しない黒子の名前。黒子も気付いたらしく、その横顔は沈んでいるように見えた。
「クラス、離れてしまいましたね」
「…………」
 名前は自分から黒子を見つけられない。つまり彼のクラスに行けば入れ違いになる可能性が高い。おそらく黒子は会いに来てくれるだろうが、それは彼の気持ちがまだ名前に向いていた場合の話である。
「……黒子、くん」
 まるで吸水性の高いスポンジでも飲み込んでしまったかのように乾く喉。あのとき彼もこんな感じだったのだろうか、と思った名前はあとで聞いてみようと一度目を伏せる。今はそれよりも先に、言わなければならないことがあった。
「つ……月が綺麗ですね」
 喧騒の中、不思議とはっきり聞こえたその言葉に黒子はつい吹き出した。
「じ、自分も言ったくせに!」
「いえ、そうですね……っすみません……」
 珍しくツボに入ったらしい黒子にすっかり機嫌を損ねた名前は背を向け、新しい教室に向かう。それを追いかける黒子は教室手前でようやく落ち着いたらしく、ずんずんと進んでいく名前を引き止めた。
「……何」
「返事、まだでしょう。……ずっと月は綺麗ですよ」
 まだ少し寒さの残る、桜が開花したばかりの四月のことだった。


[ back ]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -