いろいろ | ナノ


▼ 戻れない、戻りたい

 夕飯の支度を終えてからふとその存在を思い出す。たった数年で余計な機能をジャラジャラとつけたあの薄い、画面の大きな通信機器をどこに置いただろうか。てっきりポケットに入っているものと思っていたのに、触れてみれば最近また余計についてしまった肉の感触しかない。家の中をうろうろしてようやく見つけたそれは特に隠されていたわけでも死角にいたわけでもなく、自室のベッドの上に横たわっている。拾い上げてホームボタンを押せば緑色のアイコンと文字の羅列が浮かんだ。
『今から会えますか?』
 送り主はよくつるんでいた後輩。この部屋の片隅に飾られている白のLOOKの元持ち主だ。およそ三十分前に届いたそれに返事をしようとロックを解除して、それがどれほど久しぶりの連絡だったかを知る。この日付はたしか、私が結婚した日だ。
『久しぶり。携帯放置してた。にしてもずいぶんといきなりね』
 とりあえずそこまでで送って、返事の続きを打ってる間に既読がついて返事がくる。
『今、先輩の家の前』
「…………」
 お前は現代版メリーさんか、と打ってから全文削除して、夫に少し出かけてくるとメールを送る。今はまだ仕事中だから、返事は少し遅れるだろう。
 身支度を整えて外に出ると、そこには真波が待ち構えていた。Tシャツ、短パン、サンダルとずいぶんラフな格好である。
「あは、出てきてくれた」
「……買い物かもよ?」
「えー、でもカレーの匂いしますよ?」
「ちょっと、嗅がないでよ」
 すんすんと鼻を鳴らす真波を押しのけて、怒った顔を作る。でも実際は怒っていないし、たぶん真波もそれを理解している。何故怒ったふりをしたのか、その理由について理解しているかどうかは危ういが。
「それで、用は? まさか久々の連絡が夕飯目的じゃないでしょうね?」
「え、いいんですか?」
「話はちゃんと聞きなさい。で、用は?」
 真波が短パンの左ポケットから取り出したのは金属音を立てる手のひらサイズのそれ。高校時代お揃いを狙った訳ではなく偶然被ってしまったゆるキャラのキーホルダーがまず目に留まり、それから鈍く光る本命を認識する。なるほど、やけにラフな格好だと思えばそういうことか。
「少し、ドライブに付き合ってくれませんか?」

 瞬く間に流れる景色。それを不思議に感じるのは隣でハンドルを握る後輩のせいなのか。
「速いね」
「車ですからね」
 あの真波が車に乗っていると思うと、やはり不思議な光景だ。どんな乗り物よりも自転車が似合い、自転車が一番好きだろう男が四輪車に浮気だなんて……と飾り気のない車内を見渡せば後ろにはちゃっかりロードが積まれていて嬉しくなったのは秘密だ。
「ねえ、どこに行くの? 少しって言ってた割にはもう結構走ってるけど」
「ちょっと海まで」
「……全然ちょっとでも少しでもないんだけど」
 乗ってしまったが最後、先に行き先を聞かなかった私のミスである。夫に「予定外で、遅くなりそう。夕飯は先に食べてて」とメールを送る。返事はまだ来ていない。
「カレー、食べたかったなぁ」
「今から引き返せば考えなくもない」
「そんな気無いくせに」
 当然だ。高校時代の後輩とはいえ、誰が好き好んで夫婦の夕食に部外者の男を連れ込むものか。ただでさえ夫は嫉妬深くて、面倒くさい性格なのだから。考えただけでもゾッとする。
「オレのLOOK、まだ持ってる?」
「部屋に飾ってある」
「え……旦那さん平気なんですか?」
「そのために寝室分けてあるの。人生を共にする気はあっても、プライベートまで共にする気はないよ」
 思えば夫とはあまり共通点がない。趣味、好み、金銭感覚、どれをとってもここにいる真波の方が気が合う。それは高校のときから変わらず、当時私たちが付き合っていないことに誰もが首をかしげた程だ。思うに人生のパートナーに求めるものは人それぞれで、私にとってそれは共感ではなかった……という事なのだろう。
「そんなもんですかね」
「そんなもんだよ。だって、もし私と結婚してたらーなんて想像つく?」
「ありえないですね」
「ほら」
 そんなもんかぁ、と呟いたきり真波は静かになる。私も特別話したいことなんてなかったから、流れる景色をぼんやりと見つめた。

 車はたしかに速かった。たしかに速かったけれど、出た時間が遅かったせいで海につく頃には一番星が輝いていた。
 砂浜は少し湿っていて、踏みしめる度にくっきりとした足跡が残る。さらさらの柔らかい砂ではこうはいかない。海は黒々としていて、青く、穏やかだ。一定間隔で辺りを照らす灯台の光は強く、少々ムードに欠ける。
「なんで海?」
「さあ、何となく」
「何それ」
「嫌いじゃないでしょう?」
「たしかに」
 視線の先に広がる海はどこまでも広く、まるで果てがないようだ。小さい頃、地球が丸いと知る前は海の果てに死後の世界があると思っていた。いや、死後の世界なんて小難しい名前じゃなかったな。てんごく、天国があると思っていたんだ。死んだ人はみんな海を渡って、天国へ行って、世界の果てから世界中を見守っている……なんて性善説らしきものを信じていた。
「泳ぎます?」
 真波の言葉に心臓が一瞬止まる。この男はいつもそうだ。私がやりたいと思ったことを、好きだと思ったことを、実際に行動するし口にする。まるで半身なんじゃないかと気味が悪く、だけど嬉しい。
「バカ。私も真波ももうそんな歳じゃないでしょ」
 でもそれももう終わりだ。いや既に終わっている。素直なことも我儘なことも子どもの義務で特権で、それを代償に私は大人になった。着替えもなしに海に入れないし、パートナーがいながら真波に会うことはできない。会ってはいけない。
「…………」
 左手薬指の指輪がやけに重かった。ああ、私はどうして海にいるのだろう。どうして隣に真波がいるのだろう。どうして私は大人になってしまったんだろう。
「先輩」
 振り返ると、真波の顔がすぐそこにあった。徐々に近づいてくる唇に人差し指を当ててやればあからさまにむくれてみせる。
「なんで止めるんですか」
「したくないなら」
「嘘だ、先輩は今オレとキスしたいと思ってる」
「なんでそう思うの」
「オレがしたいから」
「ずいぶん都合のいい勘違いだね。私は真波を愛してないよ」
「オレも先輩のこと愛してないですよ」
 相変わらず訳が分からない。会話が成立しない。違う、嘘だ。私たちの会話はいつだって成立しているし、訳は息苦しくなるほどに分かっている。私はさっきからずっと嘘をついている。
「ねえ、先輩。オレたちはもう大人なんですよね? 嘘つきになってもいいんですよね?」
「少し違う。嘘をつくならそれを本当にする覚悟を持たなきゃいけない、嘘つきと呼ばれないようにしなきゃいけない」
「なら問題ないじゃないですか。オレはその覚悟だし、先輩もそうだ」
「違うよ。私は真波じゃないから、真波の覚悟は真波だけのもの。私たち、あの日から他人になったじゃない」
 あの日。私が結婚した日。真波は私におめでとうと言った。私は真波にさよならと言った。だって、そうじゃないか。私が結婚しても、真波は結婚していない。つまり彼は私の半身ではない。あの日から私たちは別人になったんだ。
「違いますよ。他人になったけど、今は同じだ」
「……え」
 突き出される左手。その薬指には輪っかがはめられている。銀色に光る、まぁるい輪っか。
「先月、結婚したんです」
「……知らなかった」
「さっき気付いてくれませんでしたもんね」
「……気付かせる気なかったでしょ」
「あは、バレました?」
「当然。……だって、私もきっとそうしたもの」
 真波の手を引いて海に入る。冷たい海水が足を濡らして、寒いのに心地いい。まとわりつく衣服が不快なのに楽しい。
「泳ごう、真波」
「はい、先輩」
 足首から膝まで、膝から臍まで、臍から肩まで。冷たい海水に体温を奪われて歯がカチカチと鳴る。寒い、苦しい、それがいい。どうしようもないほど私は生きている。
「次は坂がいい」
「今日は海の気分だったくせに」
「真波もでしょ」
「もちろん」
 どちらからとも無く海から出て、砂浜にダイブする。身体中砂まみれになって、大笑いして、星空を見上げた。
「私のこと愛してる?」
「愛してませんよ。先輩は?」
「私も愛してない。だって、私の愛はダーリンだけのものだもの」
「オレの愛だって、ハニーだけのものですよ」
「それはよかった。……おかえり、真波」
「おかえり、先輩」


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