いろいろ | ナノ


▼ 最低上出来の結末

 物心ついた頃には父親がいなかった。傭兵を生業としていたらしく、どこかの星で戦死したらしい。
「本当に往生際の悪い人でね、瀕死の重傷を負ってからも二十人くらいは倒したんですって」
 母はいつもそう言って笑っては、私の手を痛いくらい握り締めた。今思えば寂しかったんだと思う。
 そうしてシングルマザーになった母の仕事は偉い人の護衛だった。何がどう偉いのかは知らないし、興味もない。ただわかっていたことといえば、その人は随分臆病だったらしい。私と母を住み込みで受け入れたばかりか部屋は隣、他にも何人も護衛を雇っていて、貰える金額は少なくなかった。「夜兎の中でも少ない方よ」と母は言っていたけれど、それでも私たち二人が生きていくには十分な額だっただろう。けれど私はどうにもその男が好きになれなかった。
「私、あの人嫌い」
「聞こえるわよ」
「だって嫌いだもん。ねえ、お仕事他にないの?」
「ないよ。安全なのはね」
「安全じゃなくてもいいよ。母さんに鍛えてもらってるし、私も手伝う」
 母はくっくっと喉で笑うと、私の額を軽く小突く。その瞬間額に信じられないほどの痛みが走り、私はせっかく綺麗に敷かれていた布団の上でのたうち回った。
「ぬおおおぉおぉぉおお!!」
「この位でへばってるくせに、生意気言わないの」
「あ、当たらなければ……どうということは、ない……」
「避けれもしないくせに」
「母さんが、強過ぎるんだよ。他の人なら避けられるもん」
 実際、他の傭兵たちに奇襲を仕掛けたことがある。最初は子どもだと舐めていた彼らも最後には本気でかかっていたし、あれが演技なら傭兵よりも俳優を目指すべきだ。
 そんなわけで、私は自分がこの城で二番目に強いと確信していた。そして私と母が組めば宇宙にだって通用するとも。
「……強くなんてないよ。まだまだ強くならないと。アンタを守れるくらいに、ね」
 もう寝な、と言われ大人しく転がる。ここでごねると雷の如く怒られ、寝たフリをして抜け出そうものなら柱に縛られるので従順にもなるというものだ。今日も隣の部屋で見張りをする母は朝方に帰ってくるのだろう。そのときちゃんとおかえりが言えるよう、しっかり寝ておかなくては。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 どこか辛そうな母の顔。優しい母のことだから、きっとこの仕事が辛いのだろう。別に毎晩敵襲があるわけでもないのにと思うけど、そこは心配性だからか。
 その夜はなんだか胸騒ぎがして、どうにも眠れなかった。そしてようやく意識が朦朧とした頃、小さく剣戟の音が聞こえた。いつもはすぐに静かになるというのに今日はなかなか止まず、それどころかどんどん近くなっているようだ。それに合わせて早鐘のように鳴り響く心臓を胸の上から押さえ、聞き漏らさないように耳をそばだてる。一つ、また一つと悲鳴が聞こえ、その度に響く足音の数も増えていく。
「……母さん」
 小さく呟いてみたけれど、返事はない。まさかもうここまで到達されたのだろうか? だとしたら母は? 依頼主の首は? 湧き上がる不安とそれを抑えるようにリフレインする母の「起きてきてはダメ」という言葉。拮抗する天秤は隣の部屋から響いた轟音で完全に傾いた。
「はあああぁぁ!」
 布団を飛び出し、壁に拳を叩き込む。それだけで壁は吹き飛び、隣の部屋と繋がった。
「名前! やめな!!」
 母の無事な姿に安堵したのも束の間、対峙するように立つ白髪の男と目が合うと先程とは比べ物にならない不安に足を絡め取られる。
(動けない……? 私が、怯えてる……?)
 まるで自分のものではなくなったかのように指一本動かせない体で、目は男だけを捉えている。私に逃げるよう叫ぶ母の声もどこか遠くて、心臓の音ばかりが全身に響く。
「捕まえた」
 耳元で聞こえた少年の高い声に、見えない拘束が解ける。その代わりという訳では無いだろうけど、今度は視認できる腕に上半身を拘束されている。下半身はいつの間にか膝立ちを強いられ、ふくらはぎの辺りを踏みつけられていて動けない。
「その子には手を出すな!」
 母の悲鳴に近い声。ああ、早く振りほどかないと。足でまといにはなりたくない。
「子がいたか。いいだろう、同族の誼で見逃してやる。武器を取れ」
 男の言葉でようやく襲撃犯が夜兎族だと理解し、納得する。複数の夜兎に襲われたとなればその辺の傭兵で相手になるわけがない。いやそもそも、そんな奴らに狙われるほど依頼主は重要人物だったのか?
「……名前」
 思考を遮ったのは母の声。その姿はいつものように凛としていて、戦場に咲く一輪の花のようだ。それなのに勝てるイメージが湧かない。一秒後には地に伏せる姿ばかりが浮かぶ。ああ早く、早くこの腕を振りほどいて加勢しなきゃ。
「どうか……生きて」
「やめろおおおぉぉ!!」
 二人の拳が合わさったと思った次の瞬間、辺りには凄まじい衝撃波が走った。踏ん張りの効かない体勢のせいで後ろに吹っ飛びそうになるものの、拘束している少年の力は相当のようでピクリとも動かない。まるで全身が心臓になったかのような錯覚に陥りながらゆっくりと目を開くと、そこには無情にも先程想像した光景が広がっていた。
「…………」
 一瞬の放心。でも次の瞬間には、自分のすべきことがわかっていた。
「っ……!?」
 まずは拘束を解くために背後の少年へ頭突きをおみまいする。意表を突くことはできたものの解放には至らなかった。それでもふくらはぎに乗せられた足を浮かせるには十分で、自由になったばかりの脚で仕返しとばかりに挟み込み下半身を左へ、上半身を右へと捻る。
「……っ」
 足の骨を折るつもりだったけれど、流石は夜兎。その反応速度で私の狙いを察したらしく、上半身の拘束を解くことで回避されてしまった。しかしこれで私は自由を取り戻せたので、どちらにしろ狙い通りだ。お互いに一度距離を取り、次の出方を窺う。
「……小僧、油断したな」
「少し。思ったより石頭だった」
 自由を取り戻したくらいでこの劣勢は変わらない。正直頭突きがヒットしたときはいけるかもと思ったけど、やっぱり夜兎が相手じゃ簡単にはいかないらしい。でも問題ない。私の狙いは“この二人を倒す”ことじゃないのだから。
「……!」
「ありゃ?」
 ごきり。聞こえた音は実に呆気なく、ぶらりと垂れ下がる頭は気持ち悪いの一言に尽きる。依頼主だったものを地面に投げ出し、傍らのベッドから布団を引き寄せ手を拭う。正直これもあまり触りたくないけれど、そのままよりはずっとマシだ。
「……小娘、なんのマネだ」
「手柄。どこの誰かもわからない小娘に奪われたとなってはメンツ丸潰れでしょう。私を仲間にしてくれれば、それはあなた方の手柄になる」
「ここでお前も始末すればその限りではないが?」
「あなたは私を殺さないと約束した。それに、どうせ私一人じゃ生きていけない。私は……弱いから」
 母が死んだのは弱かったから。母を助けられなかったのは私が弱かったから。母は私に生きろと言った。それなら、私のすることは決まっている。
「強くなりたい。そのために……あなたたちについて行きたい」
 白髪の男が朱髪の少年へと視線を向ける。それを受けて少年は考えるような素振りを見せ、最後には頷いた。
「いいだろう。支度をしろ」
 こうして、私は宇宙海賊春雨の第七師団に加わった。

「お腹……減ったぁぁ……」
 夜、鍛練を終えてシャワーを浴びあとは寝るだけ……という状況で私の腹は元気に鳴き始めた。エネルギーを消費すればそりゃあお腹が空くことはわかっていたけど、私は現在この艦の中で最弱なので人一倍努力しなくてはならない。全ては一人でも生きていけるよう強くなるためで、そして今は一人の乙女として空腹と戦っている。
「耐えろ私……この時間に食べたら間違いなく太る……そして加減なんてものができると思うな……」
 新人かつ雑兵の私は当然相部屋で、今まで他人と同じ部屋で過ごしたことなどなかったので最初は苦労した。それが今じゃあこんな独り言のボリュームも調整できるようになったのでかなりの進歩だ。食べる量は調節できないけど。
「耐えろ……でも少しぐらい……いや、でも……私って成長期、だし?」
 そうだ、こち亀のレモンちゃんも体重気にしてたけど成長期だし平気平気って回があった。私も成長期だし、つまり食べても問題ないはず。太ったら訴訟も辞さない構えである。いけるいける。
 仲間を起こさないようこっそりと部屋を出て、食堂へ向かう。運がいいことに道中誰にも発見されることは無かったので、これは乙女としてのメンツも守れそうだ。辿り着いた食堂、その扉を開くと中には……。
「ん?」
 一人焼肉中の神威がいた。
「いやいやいやいやいや! 私これどこから突っ込めばいいの!? とりあえず換気扇回してよね煙たい臭い野菜も食べろ!!」
「ああ、どうりで」
「とか言いながら回す気ないね。米をかきこむなよく噛みなさい」
 どうして私はこんな母親みたいなことを言ってやらなければいけないのか。阿伏兎さんはどんな教育してるんだ。
 結局換気扇は私がつけて、野菜も適当に切って用意してやった。
「おかわり」
「自分でよそえば」
「名前も食べるだろ? ついでによそって」
 バレてる。いや、こんな時間に食堂来る理由なんて一つしかないからそりゃバレるか。
 この艦のキッチンには乗組員全員分の米が一度に炊ける巨大な最新式の羽釜と、現在の私たちのように夜食を欲する者のための炊飯器がある。当然私は炊飯器の蓋を開けて、固まった。そして恐る恐る羽釜の蓋を開ければ、炊きたての米が湯気を立てていた。明日の朝団員の朝食になるはずの米が、だ。
「ちょっと神威! アンタどこから米拝借してんの!?」
「炊飯器が小さいのが悪い。あと研ぐのが面倒だった」
「その手間を惜しんだせいでこのあと乗組員全員分の米研がなきゃいけないことには気付いているんですかねぇ?」
「……ありゃ」
 いくら夜兎の中でも特に大食いなコイツといえど、これだけの米が食べ切れるはずがない。冷凍保存するにしても冷凍庫は既に他の食材でいっぱいだし……ホントどうするんだこれ。
「米研ぐのは任せた」
「いや、やらないし。私は無関係デス」
「同じ釜の飯食べたんだから、共犯だろ?」
「もが、もがががが!」
 コイツ、レディーの口に米突っ込んできた! それも同じ釜どころか自分の食べかけを素手で!
「ぶ、ぶっ殺す……!」
「復讐か、いいね」
「はぁ?」
 復讐……一瞬意味がわからなかったけどたぶん、母親のことだろう。あの日城を襲ったのはこの第七師団・団長の鳳仙と……目の前にいる神威だったから。
「……別に、直接手を下したのは団長だし。神威がいなくたって勝算なんかなかった。母さんが死んだのだって、私たち二人が弱かったってだけのことで……そんなこと考えたこともないよ」
「……ふーん」
 気のない返事をして米をかきこむ神威。なんだろう、能天気に見えてこの男もそういうことを気にするのだろうか。
「いつか寝首をかかれるんじゃないかと期待してたんだけどな」
 気にするわけがなかった。ガチの戦闘狂なコイツがするはずなかった。
「ていうかホントこの米どうするの……」
「俺と名前なら食いつくせる」
「その自信はどこから?」
「俺は胃袋から」
「そんなあなたにはベンザブロック……使っても意味無いね、黄色の太田胃散でも出しとく? 私は青のパンシロン派だけど」
 結局残った米は全部おにぎりにして分け合った。米は二人とも研ぐことを頑なに拒み、食料庫の奥から偶然発見されたいつのものかわからない無洗米を使うことで合意。翌日の昼前には乗組員の過半数が腹痛を訴え、二人仲良く懲罰部屋(仮)に閉じ込められたのであったとさ。マジで神威ふざけんな。
「ホント、このスットコドッコイに関わるとろくな目に遭わない……」
「無洗米を使おうって言ったのは名前だけどね」
「あんな量一人で研げるか。こんなことなら私も被害者になっていれば……いや、乙女としてそれはないな……」
「乙女は夜食なんて食べないけどね」
「…………」
 ダメだ、お腹がすき過ぎて言い合いすら億劫になってきた。明日の朝までご飯抜きとか耐えられるかな。
「神威、もし私がアンタを食べそうになったら大人しく食べられてね」
「……そのときは俺が名前を食べるかな」
 コイツならやりかねない。私の場合はほんの冗談だし仮にそんな事態になっても噛み付いた瞬間我に返るパターンだけど、神威ならたぶん本当に食べる。
 この狭い部屋の中果たして翌朝まで逃げ切れるだろうか……と辺りを見回していると視界の端で神威が動いた。まさかもう限界だろうか。コイツの食欲ならありうる。
「か、神威さん……?」
「これ、あげるよ」
「え……?」
 差し出されたのはおにぎりだった。たぶん、昨夜のやつだから安全。というか神威が食べ物くれるとか普通に怖い。実は朝食の米食べててお腹壊した?
「水は……水道管が近くに通ってることを祈ってテキトーに壊してみようか」
「君は何故自分がこんな目に遭っているか理解すべきだ。延長コースとかマジ勘弁だからね。てかなんで? 神威もお腹空いてるでしょ?」
「ああ、それ塩むすびだから。俺のは焼き肉おにぎり」
 謎は解けたぜコンチクショー。塩むすび最高じゃないかこの贅沢者め。私は自分の分朝食で食べちゃったからなぁ……こんなことなら食べ切れる量よりもう少し多めにもらっておけばよかった。今こうしてもらえたから結果オーライだけど。
「焼き肉おにぎりじゃないのはムカつくけど、ありがとう」
「どういたしまして。ここから出たら手合わせしよう」
「むぐ。げほっ、ごほっ。何それ聞いてない」
「今言った。食べたから手合わせ、はい決定」
 それ私死ぬやつ……と思ったけど、どうやら力加減を覚える訓練がしたかったらしいとあとで知った。結局力加減覚えるまで死と隣り合わせなのは変わらないけど。
 そんなこんなで手合わせを申し込まれるようになり、夜鍋をしたり遊びに出かけたりとよくつるむようになった。別に元々避けていた訳では無いけど、なんだろう。奴の言うように同じ釜の飯を食べた仲というやつなのか、一晩ともに過ごした仲というやつなのか。思えば神威は私にとって初めての友達だったんだろう。鳳仙の跡を継ぐのが神威に決まったときもショックは特になかったし、おめでとうも言えた。
「言えたんだけどねぇ……」
 食堂で一人カレーをつつきながらボヤく。今までならこんなとき一緒だったはずの神威は団長になったからいろいろ忙しいらしく、他に友達のいない私は必然的にぼっち飯だ。何これ寂しい。
「どうした。珍しく不機嫌じゃねェか」
「それは普段の話ですか? 食事のときにっていう限定的な意味ならぶっ飛ばしますよ副団長殿」
「あー……普段の話だ」
「私だってそんなときぐらいありますよ。人をなんだと思ってるんですか、ぶっ飛ばしますよ副団長殿」
「理不尽だな、おい」
 そのまま阿伏兎さんは私の向かいに座った。どうやら今日はオムライスらしい。顔に似合わず可愛いもん食べてるな……私なんてカツカレーのカツマシマシだぞ。
「マジで機嫌悪いみたいだが、なんだ。アイツが団長になったからか?」
「違いますー。副団長殿のせいですー」
「は? 俺?」
 首を傾げた阿伏兎さんはまるで心当たりを探すかのようにコップに突っ込んだスプーンをゆるゆると回す。さっきからスプーンに米がくっつくなぁと思ってたら、今日はこれするの忘れてたんだなたぶん。洗う人ごめん。
「私ここ来てから結構強くなったつもりで、ぶっちゃけもう阿伏兎さんにも勝てるつもりなんですよね」
「馬鹿、百年はえーよ」
「つまり神威は私より百歳以上老けている、と」
「アレは規格外だ。そして年齢的な話はそろそろ気になる年頃だからやめろ」
 自分から振ってきたくせに、理不尽はどっちだ。とまあ、つまるところ私は自分の強さが認められていないようで怒っているんだ。たぶん。ぶっちゃけ神威が団長なら私は副団長だろうと信じて疑ってなかったし。
「トップが馬鹿二人じゃこの船沈没するだろ。アイツとお前さんはエンジン、俺は舵くらいに思っとけ」
「馬鹿じゃないし。てかさっきは百年早いとか言ってたし」
「忘れろ」
 忘れられるか。でも、たしかにアレが団長じゃあ副団長は貧乏くじだなぁ。どこか納得いかないけど。
「うーん……」
「なんだ、そんなに副団長になりてェのか」
「いやそれはもういいです。そうじゃなくて……なんか今は、神威の近くにいたくないなぁって」
「唐突だな! 俺ァお前さんが何考えてるのか相変わらずさっぱりだよ」
「乙女心は複雑怪奇ですからね。ヤローにはわからんのです」
 カレーを食べ終える。スプーンはやっぱり米でベタベタだった。
「そういえば就任祝いがまだでしたね。パンシロンでいいですか?」
「残念ながら俺はイツラック派だ。なんだ、心配してくれているのか?」
 イツラックて何だよ新しいもの好きかよ。女子か、女子なのか。よく見たらオムライスにケチャップでウサギ描いてあるじゃん女子かよ、女子だな。
「べっつにー……って、心配?」
「なんだ、違うのか?」
「え、私阿伏兎さんを心配してたの? 友達でも家族でもないただの上司を?」
「もういい。わかった。俺が副団長になったのが気に入らないのはよくわかったらやめろ。そろそろ本気で凹む」
「ごめんなさい、反応いいからつい」
 驚いたのは本当だけど。だって、阿伏兎さんはやっぱりそれなりに強いし。そんな人を心配なんて変な話だ。
「……ああー。そういうことか」
「何がだよ」
「いえ、私は阿伏兎さんのこと思ってたよりも好きなんだなぁと」
「……そりゃ、どうも」
「いえいえ」
 軽くお辞儀してから食器を返却口に置いて、食堂を後にする。まさか最後の晩餐がカツカレーのカツマシマシになるとはなぁ。

 深夜、耳を澄ますと聞こえたのは船の低い小さなエンジン音だけ。どうやら操縦室の団員以外はもう寝たらしい。例え寝ていなくても、少なくとも自室で待機してるだろう。
 よっこいせとベッドから起き上がるとなんだか寂しくなってきてしまった。念願叶って手に入れた個室をまさか自分から手放すだなんて、あの日の自分は思っていなかっただろう。帰ってくる場所があるとしたらそれは牢屋か土の中か、もしかしたら宇宙葬かもしれない。最近増えすぎて取締厳しいらしいけど。
 廊下に出て、神威の部屋に真っ直ぐ向かう。予定では誰にも見られずに済むはずだった。なのに目的の部屋の前には阿伏兎さんがいて、少し身構える。
「もしかして……夜這い?」
「男相手に勃つかよ。それも相手がコイツじゃあ命とケツがいくつあっても足りやしねェ」
 どうやらさっきまで神威の部屋にいたらしい。つまり神威はまだ起きてるのか。ところでネコなの? タチなの?
「で、そう言うお前さんはこんな時間にどうした? 食堂は反対側だぞ」
「今更間違えないし。てかそろそろ本当にぶっ飛ばしますよ。神威に用です」
 阿伏兎さんて毎回私を食べ物ネタで弄ってる気がする。私なんて神威に比べたら全然可愛いもんなんだけどなぁ。
「アイツならもう寝てるぜ」
「関係ないので大丈夫です。……ああ、阿伏兎さん。しばらくこの辺誰も通らせないでもらえます?」
「はあ? 何でまた……」
「いやぁ、なるべく最小限には抑えるつもりですけど久々なんで自信が無いというか。万全の態勢で臨みたいというか」
 あ、阿伏兎さん顔赤い。これ絶対面白い勘違いしてる。まあ半分狙って言ったけど。でも嘘は言ってないし。
「その、なんだ……任せとけ」
「よろしくです」
 阿伏兎さんが廊下の角に消える。そのまま遠くなる足音を確認して、いざ神威の部屋へ。中は案の定暗くて、目が慣れるまで立ち止まる。耳を澄ませば神威の穏やかな息遣いが聞こえて、どうやら本当にもう寝ているらしい。ゆっくりとベッドに近付いて覗き込めば、あのトレードマークともいえる三つ編みをおろした神威が眠りこけていた。なんだか少し勿体なくて数分その寝顔を眺め、首へと手を伸ばす。もうあと数センチというところで、ぱっちりと開いた目と目が合った。
「これって……夜這い?」
「じゃないんだなー。これが」
 予定変更。指を揃えて、心臓めがけ突きを繰り出す。なかなかに渾身の一撃だったのに、それは容易く片手で抑えられてしまった。 こんな力の入りにくい体勢で片手とか凹む。
「……折らないの?」
「折ってほしいの?」
「絶対やだ」
「だろ」
 ねむい、なんて言ってそのまま抱き枕にされてしまった。コイツ状況わかってるのかな、わかってるんだろうな。
「ねえ神威」
「明日にしてよ」
「明日になったらまた同じこと言うでしょ」
 昔っからそうだ。聞きたくないことは聞かないし、気付かれたくないことは気付かせない。でもいい加減、このくらいのことなら私だって気付く。
「……名前、怒るよ」
「怒れば」
 両手から伝わる血液の流れ。それは少しも速度が変わらなくて、わかってはいたけど舐められてるなぁと気に入らない。
「……仕方ないなぁ」
 上がった口角。それを見た瞬間はっきりと体が震えた。その隙をつくように腕を掴まれ、投げ飛ばされる。
「かはっ」
 ろくに受け身も取れないまま壁に背中を叩きつけられ、一瞬息が止まる。全身に痛みが走って、口の中は鉄の味だ。
「じゃじゃ馬を寝かしつけるとしようか」
「っ……やってみれば」
 始まった掴み合い。最近は全く手合わせをしていなかったから本当に久しぶりだ。結局一度も勝てたことはないし、数を重ねる毎に力の差は開いてく一方で、それが受け入れがたくて何度も粘った。そういえば一度粘り過ぎてしばらく絶対安静を言い渡されたことがあったな。手合わせの頻度が低くなったのはそれからかもしれない。
「おいおい、お前ら何やってんだ!」
 私も神威も一瞬手を止め、声の主へと視線を向ける。そこにいたのはやはり阿伏兎さんで、どうやらまだ起きていたらしく服装は変わっていない。少し音を立てすぎたか。
「見ての通り一戦やってます。邪魔したらうっかり殺しますよ」
「さっきのはそういう意味かよ! 本当に複雑怪奇だな!!」
「いいからどっか行ってよ。うっかり殺しちゃうぞ」
「こんのスットコドッコイども……」
 やれやれと言いたげな表情を浮かべた阿伏兎さんが一歩下がる。邪魔はしないけどこの場にいる、ということらしい。
「……なんか、テンション下がった。次で決着つけよう」
「俺の勝ちは決まってるけど」
 一度距離をとって、お互い拳を構える。飛び出すタイミングに合図なんていらない。ベストだと思ったときがその時だ。
 いつも以上に高まる集中力。これまでの全てを拳に込めて、地面を蹴る。僅かな距離を飛ぶように詰めて突き出した拳は、やっぱり受け止められてしまった。心臓の位置には神威の拳がある。
「……名前に俺は殺せないよ」
「……みたいだね」
 解放された右手。そこにはアザ一つなくて、最初に切った口内の傷もとっくに塞がっている。ああ、本当に、神威はわかってないね。
「でも、神威にも私は殺せないよ」
 左胸に走る激痛。生暖かく、湿った、柔らかい感触。全てがリアルなのに夢のようで、なんだか笑えてくる。痛みでおかしくなったのかもしれない。
「……阿伏兎、医療班」
「お……おう!」
 慌ただしくかけていく阿伏兎さんとこれから叩き起される医療班にそっと謝罪。だって私は、もうすぐこのちっぽけな心臓を握りしめてしまうから。
「これ以上勝手なことしたら本気で怒るよ」
「わか、てて……やって、ん、けど」
 苦しい。うまく喋れない。うっかり肺を傷つけたらしい。私は自殺の才能もないんだなぁ。
 私は弱い。弱い私は、いつか神威を死なせてしまうから。だからここで、あの日の本当の結末を迎えよう。
「弱い、奴は……いらな、だよ」
 朦朧とする意識の中、どうにか右手を強く握りしめた。耳元で、久しぶりに母親の「馬鹿な子だね」という呟きが聞こえた気がした。


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