練習中に倒れてから目を覚まさない那月くんを、私達はずっと見つめていた。その手をしっかりと握って離さない春歌ちゃんの後ろ姿は見ていてとても辛かった。泣いてはいけない、そういい聞かせているみたいに唇をかたく噛み締めて、零れそうになる涙を我慢していた。私はそんな春歌ちゃんの後ろでじっと那月くんを見ているだけだった。
「…那月くんっ」
春歌ちゃんが震える声を上げた。那月くんがゆっくりと目を覚ましたのだ。けれど、その目には涙が溢れていた。ポロポロと流れる涙を止めようともしないまま、彼はゆっくりと起き上がる。そして今にも泣きそうな顔をしていた春歌ちゃんを何も言わずにそっと抱き寄せた。どうして那月くんが泣いているのだろう。今まで眠っていた那月くんがどうして?何か辛い夢でも見たのだろうか。私は那月くんではないから分からない。ただ、涙を流しながら春歌ちゃんを抱き締める那月くんは、今までとは少し違って見えた。何かが足りない、なんて。
「…はは、私、早乙女さん呼んでくるね」
私の感じた小さな違和感。涙を流す那月くん。そして抱き締め合う2人。何となくその場に居づらくなって、彼が目を覚ましたことを早乙女さんに報告に行くという名目で、私は部屋を出た。春歌ちゃんはお願いしますと小さな声で言った。
「どうかしマシタ?Ms.水橋」
少し歩くと目の前に突然現れた早乙女さんはいつもの口調で首を傾げた。どこから現れたんだとか、いつからいたのかとか、そんなことを彼に言ったって無駄だということはもう承知済みである。だから私は特にリアクションは取ることなく、淡々とした口調で話し出す。
「那月くんが目を覚ましたので報告にでも、と」
「ノンノンノン。ミーが聞いているのはYouのことナノヨ!」
「は?私?何もないですけど」
「この早乙女アイを誤魔化そうったってムリデース」
早乙女さんはぐりぐりと私の頭を撫でくり回した。やめんか!と叫びながら押し退けようとしたのだが、それは逆効果だったらしく、余計ぐっしゃぐしゃにされた。しばらくすると私の頭からパッと手を離して、Youの思ってること言うがイイデース、誰にも言いませんカラー、と底無しに明るい声で早乙女さんは言った。緊張感があるのかないのか分からないなこの人は。
「………何かが足りなかった。那月くんに」
「むむっ…それは…」
「気のせいだったかもしれない。だけど、今まであったものが消えたかのような…そんな感じ」
「むぅ……」
腕を組み、早乙女さんは何かを考えるような素振りを見せた。しばらくするとふっと顔を上げて、サングラス越しに私の顔をじっと見つめる。
「Mr.シノミヤのもう1人の人格…サツキに何かあったのかもしれないな」
珍しくまともな日本語で話す早乙女さんに若干驚きはしたが、私にとっては早乙女さんの言葉そのものの方が驚愕だった。砂月に、何かがあった?一体何が?と思わず聞いてしまったが、早乙女さんは「それは私には詳しくは分からないな…」と首を横に振った。
“砂月”それが彼の名前。彼は那月くんのもう一つの人格。本人とは性格は正反対で、睨むだけで人を殺せるんじゃないかと思うほどに鋭い瞳を持った人物だ。彼にメッタメタにやられた人なんて数えきれない。でも私は知っている。砂月が本当は優しいのだということを。そして那月くんを誰よりも理解して、守ろうとしているということも。だから私は彼がちっとも怖くない。初対面から突っかかっていってやった。彼はそのことにかなり驚いたようだったけれど。それ以来私達はライバルであり、友人であり…お互いに大切な存在だ。親友…というのかな。そんな彼に、何かがあっただなんて。信じられなかった。
「サツキという人格があるがために、Mr.シノミヤの体にとてつもない負荷がかかっていたことにはお前も気付いていただろう」
「…なんとなく」
「だとしたら彼は…自ら消えたのかもしれない」
「…っ」
「まあ、推測の域は出ないがな…」
早乙女さんはそう言うけれど、私にはどうにも彼が消えてしまったという話が本当のことであると思わずにはいられなかった。那月くんのために。いかにも砂月が言いそうなことだ。バカ砂月め。親友に断りもなく消えてんじゃねーっていうの。明日は何をしてからかってやろうとか、歌を歌ってしてお互いを磨き合ったり、やりたいことはたくさんあったっての。それに、
「私の歌、聞いてくれるんじゃなかったのかよ…」
ギュッと拳を握り締めた。何もできなかった。彼のために私は何一つとしてやれなかった。そのことが悔しくて、情けなかった。本当に彼は消えてしまったの?もう、彼とおいかけっこをして遊んだり、一緒に歌ったりすることも、出来ないの?バカ、バカ砂月。そう何度も呟いて、涙が溢れそうになって、私は顔を下に向ける。早乙女さんはそんな私を何も言わずにじっと見つめているだけ。
「愛…デスネ」
それまで何も言わなかった早乙女さんは、一言だけそう呟いた。それからもう一度私の頭をくしゃっと撫でてから那月くんの部屋に入っていった。
「……砂月…」
私の発した小さな声に、答えてくれる人などもういなかった。
(もう一度、会いたいよ)足りない?