07
眠れねぇ。空却は隣で静かに寝息を立てる小春を意識しないように背を向けて布団を頭まで被った。酔った小春を連れたまま自宅に帰ってきてしまった空却は仕方なく自分の部屋に小春を寝かせたからだ。
皺になってしまうのでどうにかジャケットだけは脱がせたがスカートとブラウスは仕方がない。そのまま自分は他の場所で寝ようとすると何故か小春は空却の服の裾を掴んでいて、無理矢理離すわけにもいかず結局隣に横になってしまった。
強く目を瞑ってようやくうつらうつらと眠りに入ろうとしたところで空却の携帯が起床の時間を告げる。普通より随分早い時間に鳴るそれを慌てて止めて小春が起きてしまっていないことにほっと胸を撫で下ろした。
「ワリィな、拙僧はもう起きんだわ」
力が抜けて緩く握られただけの手をそっと開けばようやく自分の服は解放された。
小春の顔を覗き込めば涙の跡が残っている。それをどうにか消し去りたくて空却は小春の頬に触れた。指で拭って跡をぼかしてからその頬を手で包んでみる。それでも起きない小春にそっと顔を寄せて一瞬だけその唇に触れるだけのキスをした。
「…ん…」
少し身動いだ小春に慌てて顔を覗き込めば、その瞳は開かれていて至近距離で空却を写す。
「…くうこ…くん…?」
「………!」
寝ぼけて蕩けた目でへにゃりと笑うとすぐに小春はその瞳を再び閉じた。
「〜〜〜〜っ………」
声にならない声をなんとか押し殺して手で顔を覆った。やってしまった。つい、なんてそんなのはただの言い訳だ。無防備な姿を見たら触れたくなった衝動を抑えられなかった。だいたいなんだよ、今の顔。ちょっとは嫌がれよ。一気に熱が集まった顔を冷ますために空却は慌てて洗面所へ駆け込み冷たい水で顔をバシャバシャと洗う。鏡に映った自分の耳が真っ赤になっていてあまりの情けなさに自分の頬を思い切り叩きたくなった。
****
小春が目を冷ますと見慣れた天井が目に入ったがそこは自分の部屋ではなかった。ぼーっとする頭とやけに腫れぼったい瞼、全身に感じるむくみ感に昨日が飲み会だったことを思い出す。
(わたし、なんで空却くんの部屋に…?)
確か会社の同僚と別れてから、何となく酔った勢いで彼氏に電話をしたことは覚えている。きっと来てくれない、と思いつつダメ元でかけるのは何度目かわからないが、その度に断られたり電話に出てくれなかったりしていた。後からフォローしてくれるからあまり気にしないようにしていたが。
(……というか、わたしは何て夢を…)
酒のせいで熟睡していたはずだが、一部はっきりと覚えている夢があった。ここが空却の部屋だったからそんな夢を見たのかもしれない。まさか、空却にキスをされる夢だなんて。
「…はぁ。わたしもダメなやつだなぁ…」
唇に触れて思い出すやけにリアルな感触に顔が熱くなる。触れるだけの稚拙なキスは一瞬だけだったが優しかったような気がする。相手は幼馴染で、自分には彼氏がいるくせに。小春は一度大きく息を吸い込んで気持ちを落ち着かせてから立ち上がった。
自分の格好を見てみれば服は昨日のまま。メイクも落としていない。ジャケットだけはハンガーに掛けられていたから空却がやってくれたのだろう。酔った勢いで押しかけて布団を奪ってしまったのなら申し訳ないことをした。あとで謝るとして、まずは自宅に帰って準備をして仕事に行かなくてはならない。布団を整えてから小春は空却の部屋を後にした。
****
気だるい体にカフェインを流し込んで何とか1日の業務を終えた小春はその足のまま空却の家へ向かった。朝には彼氏から電話に出れなくてゴメンと連絡があったのでこっちも急に掛けてゴメンねと返しておいた。
空却は部屋で寝ていた。昼寝にしては遅い時間で、自分が布団を占領したせいで眠れなかったんじゃないかと思う。
覗き込んだ寝顔は普段の顔より心なしかあどけなくて伏せた瞼を長い睫毛が縁取っている。緩く開かれたその唇を見て今朝の夢を思い出して思わず息を飲んだ。
「…ま、まさか本当にしてるわけじゃないんだから…」
気持ちよさそうに眠っているのを起こすのはかわいそうだと思いながらも明日も早いのだし、と小春は空却の体を揺すった。
「空却くん、空却くーん」
「…あ?」
「あ、起きた?おはよう」
ぱちりと目を開けた空却は小春の顔を見てやたら驚き飛び起きて後ずさる。
「おおおおおおおう」
「あはは、びっくりしすぎ。もう夜になるよ」
「おー…」
「昨日はごめんね?わたし勝手に押し掛けちゃったんだよね」
全然覚えてなくて、いつの間にここまで来たのかもわかんないんだけど…と続けた小春に空却は少しほっと息を吐いて別にいーけど、と返す。
「あんま飲みすぎんじゃねーぞ」
「う……、はい。気を付けます…。でもさ、酔ってこっちに帰ってきちゃうなんてわたしも重症だよね」
その言葉に、ここに連れてきたのは自分だなんてまさか言えない空却は一瞬言葉に詰まった。でもよく考えてみたら小春はいつか本当にやりかねない。それくらいいつも空却の家に来ているのだから。
「お前、なんでそんなにウチに来んだよ?実家ちゃんと帰ってんのか?」
「一応帰ってはいるよ。でも家はちょっとね、ギスギスしてて…なんていうか、あんまり帰りたくないんだよね」
両親の仲が年々悪くなっていること、父は離婚を望んでいても母が拒み、その喧嘩の八つ当たりが自分に飛んでくること。小春は笑いながら話していたが今にも泣きそうな笑い方に見えた。
「…そんで、アイツのとこ行ったんか」
「アイツって、彼氏?…うん、そうだよ」
「…拙僧がそばにいれば、」
「でもいなかったじゃない」
食い気味に被せられた言葉は力強く言い放たれて、小春は顔を俯けたまま掌を強く握りしめている。
「空却くんは、そばにいてくれなかったじゃない」
顔を上げた小春の瞳は今にも涙が溢れそうで、それでも必死に堪えている姿にずっとこうやって耐えてきたのかと思う。
「仕方なかったってわかってるよ。空却くんは何も悪くない。誰よりも一番空却くんにいて欲しかったなんてそんなのわたしのワガママだし」
そこまで言ってからゴメン、と小春は再び俯いた。
「……お前、アイツが影で何してるのか知ってんのか」
「…そんなの空却くんには関係ないじゃん。それはわたしと彼の問題だよ」
「関係なくねぇ!!」
声を荒げた空却に小春は体をびくりと震わせる。その拍子に涙が一粒頬を伝った。
「好きな女が傷付いてんのに見過ごせるわけねぇだろ!」
小春の目からは大粒の涙が溢れていた。震える唇からどうにか音を紡ぎ出す。
「なんで、今更そんなこと言うの…?…もう遅いよ…」
小春は空却の部屋を飛び出した。空却は追いかけることも出来ずにその場に立ち尽くす。
ずっと言えなかった気持ちはこんな形で伝えるつもりなどなかったのに。小春の言う通り、今更だ。もっと早く、アイツよりも早く気付いて手を差し伸べていれば、小春の隣は自分のものだったかもしれないのに。
[ < > ]