(クユセヴ同棲if)
「おかえりなさい、クユリさん」
“おかえりなさい”と言って彼を出迎えてかれこれ3日目。初日はこの言葉の慣れない響きに戸惑った。
「ただいま、セヴリーヌ」
そして出迎えた私に“ただいま”と優しく微笑みかけてくれる彼が帰ってきた時の安心感も今まではなかったものだ。
「雨、降って?」
「ああ、少し降られた」
少し濡れたふわふわの白い髪と彼が着ているコート。風呂場にタオルを取りに行き、彼に手渡した。ありがとう、と言いそのタオルで濡れた髪を拭く彼。
「風邪引かないでくださいね、夕食の前にお風呂にしますか?」
「ん、そうする……セヴリーヌ」
風呂場に向かうクユリさんに名前を呼ばれ彼の方を見る。どうかしました?と尋ねれば彼はいたずらっぽい笑みを見せた。
「一緒に入る?」
「入りません」
いつも彼は余裕だ、そんなクユリさんを見ていると年下には思えなくて困る。普段接していて彼が年下に思える時なんてないのだけれど。
「冗談だよ」
「ですけど、お背中流しましょうか?」
「なんか、新婚の会話みたいだな」
そう言われて思わず照れてしまう。新婚とはこんな感じなのだろうか。同棲しているのだから遠からず、こうなのだろう。
「セヴリーヌ」
「はい」
「すぐ出るから、待ってて」
「いえ、ゆっくりしてきてください。夕飯の、支度をして待っていますから」
そう言えば彼はまたにっこり笑った顔を見せた。クユリさんが風呂場に向かう背中を見送った。ザァァとまだ降り続く雨音を何となく聞きながら、こんなにも幸せな時間を過ごして良いのだろうかと考える。
「しーあ」
ぼーっとここ数日の生活に思いを馳せていた所、シーヴルが私の服の裾を引っ張ってきて現実に引き戻される。
「シーヴル、お腹空いたのですか?」
そう問えば、シーヴルは首を横に振った。何だろう、そう思いながら目の前の鍋に目を移す。いけない、シチューの具を焦がす所だった。彼女は上の空の私に、大丈夫なの?と声を掛けてくれたのだ。
「ありがとう、シーヴル」
「しあ」
具が炒めあがったので鍋に牛乳と水を入れ煮込む。流石に惚けてしまっている事実を受け入れねばならない。恥ずかしい、と両手で顔を覆う。
「どうした?玉ねぎに泣かされたか?」
ふわっと石鹸の良い香りがして、背中に彼の温かい体を感じる。思わずビクッと体を震わせ、漸く顔から手を下ろす。
「違います…」
「顔覆ってたから」
「泣いてませんし」
そう言えばクユリさんは、あははと笑った。そして耳元で、耳赤いけど?と囁く。そういうのは反則です。
「意地悪です」
「セヴリーヌがいじらしく隠すから」
「クユリさん、そういう所ですよ」
何が?と問う質問には敢えて答えない。クユリさんは線が細いといつも思っていたが、背中に感じる彼は、やはり男の人なのだと思う。
「今日はシチュー?」
「ええ、今更ですが…食べられます?」
「ん、大丈夫」
「!?」
ポタッと滴り落ちた水が首に落ち驚く。何かと思えばクユリさんの濡れた髪から滴った水だ。
「髪、乾かしてないんですか?」
「乾かすよ」
そう言ってクユリさんの腕がするりと離れる。シチューが煮詰まってきたので、火を止め洗面所に向かう彼の背中を追った。
「…私がやっても良いですか?」
「セヴリーヌが?良いけど…」
そう言うと、クユリさんは洗面所の鏡の前に低めの丸椅子を持ってきてストンと腰を下ろしてくれた。
「髪ふわふわですよね…」
「癖っ毛だよ」
彼の髪をタオルで拭きながら、ああ穏やかで幸せな時間だ、と改めて感じた。きっと今のように彼と共に何気ない時間を過ごすことで、私は満たされているのだ。
「この数日間が、幸せだと思ったんです。こんなに浮かれた気持ちで良いのでしょうか」
「幸せだとダメなのか?」
「いえ、…」
そういう訳ではない。私としても、ずっと幸せだと思える暮らしに憧れていた。だがそういう環境に身を置く自分を、またそういう暮らしに浮かれている自分を、許すべきではないと律するブランシュとしての“私”が居る。
「セヴリーヌ」
「はい」
「俺も、ここ数日は浮かれてる…帰ってきたらセヴリーヌが居て、他愛ない話をして、寝るまで一緒だろ?幸せだと思っちゃダメなのか?」
私は首を横に振る。鏡越しにクユリさんのアメジストの双玉と目が合うと、彼は丸椅子に座ったまま私に向き直った。
「ダメじゃないです…」
そう小さく零せば、彼はにっと笑った。クユリさんの笑みを見て、ふっと頬が緩む。
「浮かれてる自分に恥ずかしくなった?」
「そうですけれど、今更言わないでください…」
クユリさんはいたずらっ子のような笑みを浮かべる。今日は意地悪ですね、と言えば彼はそうか?と惚けてみせる。そして名前を呼ばれた。
「何でしょう?」
「俺の名前、呼んで」
いつも通りに呼べば彼は、呼び捨てで呼んで、と。私を見上げた状態で言う彼が何だか可愛らしく思える。
「クユリ、…」
「やっと呼んでくれた」
「さん」
クユリさんは、やっぱりダメかー、と零した。詫びれば、次名前を呼ぶ時は呼び捨てで呼んでと。呼ぶ前から無理な気がする。
「善処します」
「しーあ!」
「どうした?シーヴル、お腹空いたか?」
リビングの方からやって来たシーヴルが私に前脚を預けている。今度こそ、きっと晩御飯はまだか、と言っているのだろう。
「ご飯にしようか」
「ええ」
いつか私が眠りに就き、例え別れ行く時が来るのだとしても、今だけは永久にこの時間が続くことを願う。