想いには名が有った筈なのに、私はそれを思い出せないでいる。心臓はそれでいいと優しく凪ぐけれど、どうしてもその名を思い出さなくてはならないような気がするのだ。今では何もかもがあやふや過ぎて、もう手遅れなのかも知れないけれど。あの時焦がれた想いと、今感じる微かな想いの残り香とでは、もう違うものになってしまっているのかも知れないけれど。



待ち合わせ時間は6時。現在の時刻は8時。深夜とは言えなくとも真冬の8時はすっかり闇に包まれていた。イルミネーションの施されたツリーの下、もう人も疎らな中に、ぽつりと寒そうに肩を竦めて待っているのを見付けた。
なんで。その時はその3文字が頭を巡っていた。なんで。こんな寒空の下。一人で。1時間しても来なかったら帰るのが普通だろう。ああこれは悪い事をしてしまった。いくらバイトが長引いたとはいえ。連絡も寄越さず、もう居ないだろうと帰りの道すがらに通り掛かかってみれば、だなんて。きっと彼は、一度してしまった約束は破れない質なのだろう。でなければ、こんな、ただの大学の同級生の女を2時間も待ったりはしないだろう。きっと彼は後悔していたのだろう、たまたま、気まぐれで、私をディナーに誘った事を。他に可愛い女の子は沢山居ただろうに、こんな私を誘ってもらって、待たせてしまって、本当に申し訳が、無い。
「お待たせしてしまって、ごめんなさい。バイトが、長引いて」
そう告げれば彼は寒さで真っ赤にした顔を上げて、ぶんぶんと手を振った。ううん、大丈夫!笑顔でそう言ってくれて、ますます申し訳無い気持ちで一杯になった。
彼は私の手を握って、言った。「は、はぐれないようにさ。」そうだ。今日は一段と人が多い。私がはぐれてしまってまた彼に迷惑を掛けてしまわないように。でもそれだけじゃなくて、指先からじんわりと温まっていくようで、私は嬉しかった。「……来てくれて、来てくれるだけで、僕は、よかったんだからさ」先を行く彼の顔は見えない。だから彼にも私の顔は見えていない。見られていなくて、本当に良かった。今まで一度も感じた事の無い、酷く奇妙で恐怖さえ感じるような想いが一瞬にして広がった時の私の顔を見られていなくて、本当に良かった。見られたくないと思ったのだ、不思議な事に。



目の前では、美しい指輪が箱から顔を覗かせていた。それを差し出す人は、彼じゃない。
こんな時なのに、私は全く別の事を考えていた。恋人の前で、恋人ではない彼の事を考えていた。何の想いも抱いていない人の前で、一生で一度しか感じた事のない想いを抱いていた彼の事を、その想いを、思い出していた。

想いには名が有った筈なのに、私はそれを思い出せないでいる。心臓はそれでいいと優しく凪ぐけれど、どうしてもその名を思い出さなくてはならないような気がするのだ。あなたに伝えたかったこの想いに、名を与えなければならないのだ。



 
2010/12/25

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