▼ずっと近くに 「よしっ!」 健診で休みを取っていた亜梨実は病院から帰ってくると手早く作業に取り掛かった。 今日のメニューは銀太の好物を作ろうと決めていた。メインの料理は下拵えをすませておいて、ケーキ作りに取り掛かる。 バレンタインの時は手作り出来なかったが、最近はにおいで気分が悪くなることもなくなったため、誕生日には手作りのケーキにしようとひそかに決めていた。 手際良くケーキ生地をオーブンに投入したところでバッグに入れっぱなしにしていたスマートフォンを取り出すと銀太からメールが来ていた。 受信時間は一時間ほど前。 「どうだった?」というたった一言に彼の心配そうな表情が浮かんで亜梨実は微笑む。 「順調です」と返した瞬間に着信があって、驚いてスマートフォンを落としそうになった。 「もしもし?」 『あ、もしもし』 「あれ?授業は?」 『今年はこの時間は空きだよ』 あぁ、そう言えば新学年になったんだったと思い出す。 『亜梨実は今どこ?』 「家よ」 『そっか。返事なかったから何かあったのかと思って』 だからすぐに電話がかかってきたのかと納得する。 「ごめんね。バッグに入れたままにしててメールに気付いてなくて」 『いや、何もなかったのならいいんだ』 安心したような銀太の声に亜梨実は微笑む。 「ねぇ、今日は帰り何時くらいになりそう?」 『そうだなぁ。七時すぎには帰れると思う』 「ん。分かった。まっすぐ帰ってきてね?」 亜梨実の言葉に「うん」と頷く銀太の声は、電話越しでも嬉しそうなのがわかる。 『それじゃ、お仕事頑張ってね?須王先生』 いたずらっぽくそう言う妻の声に「亜梨実も須王だろ?」と言ってやろうかと思ったがやめておいた。 「うん。ありがとう」 亜梨実の一言で、俄然頑張れるなと銀太は通話を終わらせ、電話するために忍び込んだ空き教室から出たところで 「あれ?銀ちゃん?なんでそんなトコロから?」 授業を終えたばかりだった松浦立夏と小島笑里に見つかってしまった。 「ちょっと電話するのにな」 「あ、もしかして奥さん?ラブコール?」 「違うよ」 楽しそうに目を輝かせる立夏にそう言ったものの、亜梨実の「頑張ってね」は銀太にとってはなによりのラブコールだ。 「えーっ、電話の相手奥さんじゃなかったの?」 「いや、奥さんだよ」 「やっぱりラブコールなんだぁ」 きゃあきゃあとはしゃぐ立夏に銀太は苦笑する。 「あんまりからかうと抜き打ちするぞ?」 「職権乱用はんたーーーい!」 「立夏は普通のテストでも苦戦してるでしょ」 「うぅっ、笑里は頭いいから抜き打ちでもいい点取れちゃうんだろうけどさぁ」 「そんなことないってば。須王先生の抜き打ち結構容赦ないし」 「ははは、冗談だよ。次の授業遅れるなよ」 そう言い残し、二人と別れ職員室へと向かった。 「須王先生、なんか機嫌いいね」 「奥さんのラブコールのおかげかなぁ」 「まだ言ってるし」 笑里がくすくすと笑うと立夏はふふふと笑った。 「毎日おうちに帰れば綺麗な奥さんが出迎えてくれるんだから、機嫌も良くなるんじゃない?」 「須王先生の奥さんそんなに綺麗な人なんだ?」 「うんっ!すっっっっごい美人だよ!」 立夏の声はよく通るのでしっかり聞こえていた銀太は内心でそうだろうそうだろうと頷く。 「銀ちゃんにはもったいないくらいだよ」 「こらー!聞こえてるぞ、松浦ぁ!」 「ひゃあ!ごめんなさーーーい!」 「次の授業の時に抜き打ちがあったら立夏のせいだからね!」 「えぇっ!そんなぁ〜っ…」 銀太はそこまで私情を挟みはしないのだが、抜き打ち効果はなかなかすごいようだと改めて実感した。 「ってことがあったんだよ」 電話の後であった出来事を銀太から聞いていた亜梨実はくすくすと可笑しそうに笑った。 「笑うなよ」 「ふふっ、ごめんなさい」 後ろから亜梨実を抱きしめるような体勢なので彼女の表情をうかがい知る事はできないが、きっと楽しそうな笑顔なのだろうと思うものの「銀ちゃんにはもったいない」という言葉は銀太としては、やはり面白くない。 そんな言葉は大学生の頃にも亜梨実に好意を寄せる男から何度も言われてきたのだ。 それを自分の教え子にまで言われてしまうのはやはりどうしたって悔しいのだ。 あげくその立夏の兄姉である遊と光希に至っては披露宴のときに亜梨実に「世界遺産に惑わされて早まったんじゃない?」などと言い出す始末だった。 「ったく…どいつもこいつも…」 銀太の言葉から不機嫌を感じ取ったのか、亜梨実はくるりと後ろを向いてチュッと彼の頬にくちづける。 「機嫌なおして?」 柔らかいくちびるの感触と、亜梨実の甘えるような声色で、さっきまでのモヤモヤが吹っ飛ぶのだから、相変わらず単純だなと思う。 それを感じとられるのは少し悔しいので、銀太は亜梨実のくちびるを自身のそれで塞いだ。 「ん…っ」 すぐに離して、至近距離で亜梨実と見つめ合う。 その瞳が呆れたようでいて、だけどどこか優しくて銀太は彼女の耳元にくちびる寄せた。 「なおった」 「ホント?」 「うん」 亜梨実が少しだけ探るように見つめてくるので、恥ずかしくなった銀太は彼女の反対に頭を移動させて抱きしめる力を少しだけ強めた。 しっとりとした素肌がさらに密着して、とくりと鼓動が少しだけ速くなる。 「ケーキ楽しみ」 ぽつりと銀太が呟くと、亜梨実は小さく微笑んだ。 「今日のメニューで一番自信作なの」 「ケーキ?」 「うん」 亜梨実がいつもよりも時間と愛情をこめて自分のために作ってくれた手料理はどれも美味しくて、見た目も鮮やかで銀太は感動していた。 それよりも自信作と言われたら、ますます楽しみになる。 手料理とケーキだけに留まらず「今日は特別よ?」なんて言ってくれて、今こうして一緒にお風呂に入っているのだから、誕生日ってこんなにすごかっただろうかと思ってしまう。 一緒にお風呂に入ることがないわけではないが“亜梨実から”誘ってくれたことが重要なのだ。 「亜梨実」 「なぁに?」 「俺、すげー幸せ」 「どうしたの?急に」 亜梨実の優しい声色にホッとする。 「亜梨実が俺のそばにいてくれるのが、幸せだなぁって」 「銀太」 「ありがとう。亜梨実」 背中から伝わる銀太のぬくもりと、変わらない優しさに幸せを感じているのは私なのにと思いながら亜梨実はうんと頷いた。 「銀太」 亜梨実は体勢を変えて銀太の方を振り向くと、彼に抱きつく。 「お誕生日おめでとう。生まれてきてくれてありがとう」 (私を愛してくれて、ありがとう) 心の中でそう呟いた亜梨実の耳元で銀太がくすりと笑った。 「ありがとう。亜梨実」 銀太は大きくなった亜梨実の腹部にそっと触れて、優しく微笑んだ。 「っ!!」 はじめて掌に感じた、亜梨実に宿った命。 「この子もおめでとうって」 銀太よりもはっきりと感じた胎動に微笑んだ亜梨実の表情は見惚れるほどに綺麗だった。 銀太は亜梨実をそっと抱きしめて、幸せを噛みしめた。 |