▼君がいること 「ただいま」 「お帰りなさい。夕飯もう少しで出来るけど、先にお風呂入ってくる?」 「いや、あとでゆっくり入るよ」 手洗いとうがいを済ませてリビングに戻った銀太は、亜梨実の様子を見て口を開く。 「何か手伝えること、ある?」 「こっちは大丈夫だから、コップとお皿とお箸出してくれる?」 「わかった」 銀太は頷いて必要なものを出して、テーブルに並べると、再び亜梨実の元へとやってくる。 「なぁに?そんなにお腹すいたの?」 亜梨実はくすりと笑うと、前に立つ夫のくちびるにヘタを取ったプチトマトを押し当てた。 「もうちょっとだから、待ってて?」 そう言って微笑む亜梨実は綺麗で銀太はぱくりとトマトと一緒に彼女の指を口に含んだ。 「ばかっ!」 「ごめん。お、このプチトマトうまい」 銀太はもぐもぐとおいしそうにプチトマトを食べた。 夕飯を済ませ洗い物を食洗機に入れてから、銀太はミルク鍋を取り出すと最近の日課になっているホットミルクを作り、ソファの前のテーブルに二つのマグカップを置いた。 「熱いから気をつけろよ」 「うん。ありがとう」 隣に座って、ホットミルクを一口飲む。 「ねぇ、銀太」 「なに?」 「私に合わせてホットミルク飲まなくても、コーヒー飲めばいいのよ?」 亜梨実の言葉に「なんだそんなことか」と返して、銀太は笑顔を見せる。 「ホットミルク好きだし、それに一杯も二杯も作る手間は一緒なんだしさ」 「まぁ、銀太がいいならいいけど」 亜梨実は納得したように頷くと、ソファから立ち上がった。 「亜梨実?どうした?」 「ん、ちょっと」 そう言って戻ってきた彼女は「はい」と、銀太の前にシックなペーパーバッグを置いた。 「ごめんなさい。ホントは作ろうと思ってたんだけど…においがダメで…」 亜梨実の言葉に銀太は笑顔を見せて、ラッピングされた箱を取り出そうとして、驚いて亜梨実を見る。 「ふたつ?」 「……三年ぶりだから」 ふいと視線を逸らせて、ホットミルクを口に含んだ亜梨実に銀太はそっかと返して、中から二つの箱を取り出した。 ひとつは名前を見るからにアルコールの入っていそうなもので、もうひとつは生チョコレートのようだった。 「ありがとう。亜梨実」 銀太はどちらを開けようか少しだけ迷って生チョコレートを手にして裏の原材料欄に素早く目を通した。 「なに見てるの?」 「大丈夫かなぁと思って」 「なにが?」 「亜梨実が」 「私?」 不思議そうな亜梨実に笑いかけると、銀太は生チョコの開けて、ピックで一粒をさす。 「はい、あーん」 「……なんで私が食べるの?」 「いいからいいから、ほら、あーん」 亜梨実は差し出されたチョコをぱくりと口に入れて、舌の上で溶かす。 「うまい?」 「うん。って、なに?いらないの?」 「いや、いるけど」 銀太はそう言いながらチョコレートをもうひとつピックにさしたものの、それを口にしようとはせず、彼の行動がよくわからない亜梨実は少しだけ不満そうな表情を見せる。 「なぁ、亜梨実」 「なに?」 「さっきさ、三年ぶりだからって言ったよな?」 「え?うん。言ったけど」 頷く亜梨実のくちびるにぴたりともうひとつチョコを押し当てると、彼女はそれをぱくりと口に含んだ。 「だったら、ひとつ少ないだろ?」 その言葉に困った表情を見せた亜梨実のくちびるを、銀太は素早く塞ぐと、するりと舌を差し込んで、彼女の舌の上にあった物に触れる。 「っ!」 器用にそれを絡め取ってくちびるを離す。 「うん。うまい」 「なっ、に、考えてるのよ!ばかっ!」 「これでみっつだな」 「知らないっ!」 赤くなってそっぽを向いた亜梨実を満足そうに見つめた銀太は、ようやくピックでさした生チョコを自分の口に入れた。 先ほどの夫の行動に呆れ半分、恥ずかしさ半分で亜梨実は彼の横顔を見つめる。 銀太と付き合い始めた高校三年生の時からロンドンに転勤する前まで、どれだけ忙しくても毎年手作りのお菓子をあげていたので、お店でどれにしようかと悩んだのは今年がはじめてで、新鮮で楽しかったことは彼には秘密だ。 出会った頃よりも、当然ながら大人びた銀太の表情は、それでもはじめてのバレンタインを喜んでくれた時と変わらない無邪気さを残していた。 (やっぱり亜梨実からのチョコが一番嬉しいな) 生徒や同僚たちからそこそこの数のチョコレートをもらっている銀太だが、一番はじめに口にするのは亜梨実からの物と密かに決めている。 三年ぶりだからとわざわざ二つのチョコレートを用意してくれているとは思っていなくて、その優しさが嬉しかった。 とっさに銀太の口をついてでた言葉は、別に亜梨実を困らせたかったわけではない。 銀太はちらりと亜梨実を見て、その綺麗な横顔に見惚れる。 気付けば出会ってから人生の半分に亜梨実の存在があって、はじめて出会った頃にはこうして彼女を愛することになるなんて夢にも思っていなかった。 結婚して十年近くの時が流れても、好きだという想いと、愛しさを感じられることが幸せだと思う。 銀太はそっと亜梨実の肩を抱いた。 「銀太?どうしたの?」 「なぁ、亜梨実」 「なに?」 「来年は、また作って?」 銀太の言葉に亜梨実は少しだけ驚いたような表情を見せた。 「あ、いや、買ったやつでも当然うまいんだけどさ、でも俺はやっぱり亜梨実の手作りのやつが好きだからさ…」 「うん」 そう言った亜梨実の笑顔がやっぱり綺麗で、銀太はもう片方の手で彼女の腹部に優しく触れると、ゆっくりとくちびるを重ねた。 |