▼リトル・メモリー 「ちょっと、いつまで不貞腐れてるのよ?」 「べっつに〜?水沢別に拗ねてませんよ〜?」 「あんたねぇ…」 冴子の声を背中に聞きながら諒は振り向かずに歩みを進める。 「なんであそこにいたの?」 「は?」 「なんで忍のところにいたんですかね?キミは」 「なに言ってるの?あたしが忍様のところにいるのは当たり前でしょ?」 「朝の9時からですか?」 「最近早起きを心がけてるのよ」 「ふーん」 そう答えてテクテクと歩く。早足になりすぎないように、彼女との距離が開きすぎないように。 朝の8時に忍に電話で叩き起こされ907号室へと出向いたところ「おはよう。今日は早いのね」なんてキッチンからひょっこり顔を出されたら驚くというものだ。 あげく、くそ暑い中、来たというのに湯気の立つ紅茶を差し出されたのだ。 「キミはアイスティーを知らんのか」 「知ってるわよ。でもこの茶葉はホットがおいしいのよ!」 なんて言われてしまった。 「いらないのならあたしが飲むから返して」と奪い返されそうなのを「もらいます!いただきます!ありがとうございます!」と死守したのはほんの30分ほど前のこと。 さて、肝心の忍の要件はというと―― 「そもそも何が悲しくて自分の誕生日ケーキを自分で買いに行かねばならんのですかね!?」 「ちょっと!忍様のご厚意にケチつけようっての!?」 諒ひとりでは迷って帰ってこられないとケーキが傷んでしまうといけないだろうから、と、冴子が付き添う事になったのは、忍の采配だ。 「つけたくもなるわ!なーにが『お前の好きなケーキを買っておいで』だ!」 「別に実費で買えって言われてるわけじゃないんだからいいでしょ!」 「そんな事あったら、ブラックすぎるわ!訴えてやるわ!」 「じゃあどうしたら良かったのよ…」 冴子の声にちらりと振り向くと、怒ったような困ったようななんとも言えない表情を見せていて、諒はぴたりと足を止める。 「ねぇ、冴子さん」 「なによ」 「俺、誕生日なんですよ。今日」 「知ってるわよ。だからケーキ買いに行くんでしょ?」 冴子の足音が近づいてくる。 「ほら、そんなところに突っ立ってると他の人の邪魔になるわよ」 横を通りすぎようとした瞬間、冴子の細い手首を掴んだ。 「ちょっと、なにす「誕生日なんだよ。俺」 冴子の言葉を遮って、もう一度言う。 「……おめでとうなら、ちゃんと言ったじゃない」 日付が変わってすぐに「誕生日おめでとう」と、一文が書かれたメールが届いたので、思わず電話をかけたのは諒だった。 その時に電話越しにも言葉をもらった。 「……なんで、ケーキを買いに行かなきゃならんのですか?」 「誕生日だからでしょ?」 「……」 「なによ、もう。自分で買いに行くのが嫌ならそう言いなさいよ」 諒の沈黙をさっきの発言と合わせてそう解釈したのか、冴子はため息をついた。 「あたしの独断と偏見と美意識で選んできてあげるから、そこのカフェにでも入って待ってなさいよ」 そう言って諒の手を振りほどこうとしたので、グッと力を込めて阻止する。 「っ、ちょっと諒!いい加減に」 「なんで冴子さんが作ってくれないんですか?」 「……え?」 「冴子が作って?」 「…………」 「ね?」 「…………」 「誕生日プレゼント、ケーキでいいからさ」 「……ごめんなさい」 冴子がしゅんとしたようにようやくそれだけを呟いた。 「ダメだったの!」 「は?」 「作ろうとしたけど、何回やっても、うまくいかなくて、だから」 冴子の言葉に諒はその場にしゃがみこむ。 「なんだよもー…」 ガキみたいな駄々をこねて恥ずかしい。 「失敗したのでもい「いや!」最後まで人の話を聞きなさいキミは!」 「ホントに、いや」 「本人がいいって言ってるのに?」 「だめ」 「あのねぇ…」 「来年まで、待って」 冴子ははっきりと、そう言って、まっすぐな瞳を諒に向ける。 「…………ーっ、あーもうっ!」 諒はガシガシと髪を掻き乱すと、掴んでいた手首から手を滑らせて、冴子の手を握る。 「ちょ、っと!」 「行きますよ!」 「どこによ!」 「冴子さんの美意識にばっちり当てはまるケーキ屋さんです!」 「え?」 「来年は、楽しみにしてますから!」 |