『スニベリーの癖に』
その一言が僕の逆鱗に触れた。
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その言葉を口にしたのは、当然ながらあの僕が心底憎んで仕方ない黒縁眼鏡のいやらしい笑みを浮かべた天才と持て囃されて調子に乗っている男だった。
「スニベリーの癖に、生意気なんだよ」
ひどく乾いた嘲笑。
いつも通りに、受け流せば良かったのだ。だのに僕がいつもと同じようにそうすることが出来なかったのは隣に彼女が居たからだ。大切で大切で大切で、何物にも比べられないほどに愛しい彼女の目の前で、その忌み嫌う名前で呼ばれた。からかわれた。馬鹿にされた。蔑まれた。嘲笑われた。
「その名前で、呼ぶな」
怒りで感情が保てず、自分が吐き出しはずの押し殺された声の低さに驚く。それほど己が今、冷静ではないのだとやけに生々しく実感した。リリーが僕の為に反論しようと口を開きかけたことにさえも意識が向かない。全身の血液が沸騰したように熱く、呼吸が苦しい。全身を震わす震えを抑えられず、拳を握り締めた。その拳の血の気が引いて、真っ白になろうが関係無い。
「その名前で呼ぶなと、言っている」
重たい、圧迫感を孕んだ声がまた吐き出される。それを吐いているのが自分の血色の悪い薄い唇なのだという実感だけが奇妙なまでに薄い。
「セ、ブ……?」
隣のリリーが不安そうに見上げているのに、それに対して優しい対応をすることさえ出来なくて彼女の手を離した。離れていく体温が、滑らかな肌が、急にひどく現実味を失って今まで感じていた彼女が、消えた。忌み嫌う名前で呼ばれる、それだけでも僕にとって不愉快、それどころか怒りにすら繋がるというのに、その名前を彼女の前で呼ばれたのだ。最も嫌う男、天敵のジェームズ・ポッターによって。一瞬で頭が真っ白に、怒りで染め上げられた僕は優しいリリーの手を離した。唯一の味方で、友達で、大切な人の、彼女の手を。
「っ…、セブルス……!」
あぁ、追い縋るリリーの声が聴こえる。逃げ出した弱虫の僕を嘲笑うポッターの声が聴こえる。何て僕は惰弱なのだ。弱虫で惰弱で情けなくて格好悪くてみすぼらしい。僕はなんて、
「セブルス!」
刹那、腕を引かれたと思うとエメラルドグリーンの虹彩に真っ直ぐに射抜かれた。それはとても、とても力強くて凛々しい眼差しで。僕は否応なしにどくりと心臓が跳ねるのを抑えられなかった。そしてリリーは可憐な薄紅色の唇をそっと開いて、そして
僕を糾弾した。
「どうして―――どうして逃げるの…!」
エメラルドグリーンが僅かに翳る。彼女にそうさせているのは自分なのだと、吐き気がするほどの生々しさが込み上げてきて呼吸が苦しくなった。
「……彼から逃げるのは構わないわ、」
押し出すような声は震えていて、じわりと溢れてきた涙にリリーの瞳が潤んだ。
「でもセブルス…何から逃げても構わないけれど、私からだけは逃げたりしないで…!お願い、だから…お願いだから私から離れたりしないでっ…!」
涙が溢れかえり、彼女の白磁の滑らかな頬を伝い、流れ、そして僕の真っ黒なローブにより黒い染みを作った。
「……リ、リー……」
「―――お願い、だから」
やっとのことで絞り出した声は掠れていて、それでも名前を呼ぶと彼女は弱々しく微笑んで哀願するように囁いた。僕は彼女に願われるような立場ではないのに、それなのに彼女は願うように囁いた。
「……お願いよ、セブ」
弱々しい声と共に、彼女の柔らかな身体が僕の胸の中に倒れ込む。慌てて受け止めると、リリーは細い肩が震わせてすこしだけ笑ったようだった。
「リリー」
僕の胸に顔を埋めている彼女の耳元に囁きを落とすように呼び掛ける。艶やかな髪をそっと梳くと、リリーは顔を上げて僅かに首を傾げた。
「ごめん、君を傷付けた」
「……いいのよセブ、私が傷付けたのは私自身の弱さが原因なんだから」
弱い。
それは初めて聞く彼女自らの唇から紡がれた自嘲の言葉で、僕は目を瞬かせて苦笑を浮かべるリリーを見詰め返した。
「どうしたの?可笑しな顔をしてるわ」
「……君が、弱いだなんて」
「当たり前よ、私は弱いもの」
「―――……そんな、」
「弱いのよセブ、私は結局、強がっているだけだもの。強いふりをしているの」
だからねセブ、と彼女は笑う。
柔和に笑う。
「私は貴方無しじゃいられないのよ」
秘密をそっと打ち明けるように、リリーは密やかな声で囁いた。うつくしい彼女の声が僕の鼓膜を揺らし、脳髄に甘い蜜のよう柔らかに優しく落とされる。
「ねぇセブルス、私を独りにしないでね」
甘えを孕んだ彼女の声だけが、反響した。
(あなたとわたしだけのひみつ)
end.