黒い瞳は



「ねぇ聞いてよ」

もふもふ

「最近あの人ってばひどいんだ」

もふもふもふもふ

「僕は何もしていないのに、いきなり睨み付けてくるんだよ」

もふもふもふもふもふもふ

「いきなりだよ、いきなり。あと廊下ですれ違う時に決まってあからさまに嫌な顔をするんだ」

もふもふもふもふもふもふもふもふ

「この前なんて図書館でスネイプ先輩と宿題をしていただけなのに、たまたま鉢合わせたジェームズ先輩とあの人に散々からかわれたんだよ」

もふっ

「―――…ねぇ、どうしてあんなに…」

真っ黒な毛皮に顔を埋めて、レギュラスは唸るように憂いを吐き出した。


×


レギュラスがそれを見つけたのは学校の外れ、禁じられた森の近くだった。真っ黒な毛皮に黒曜の瞳を持ったそれは、狼のように立派な体つきをしていた。恐る恐る近付いてよく見てみると、それは黒犬だった。

「………校内に、犬…?」

禁じられた森から迷い込んできたのだろうか、その黒犬は酷く飢えた瞳をぎらぎらと光らせ、しきりに何かの匂いを嗅いでいた。どうやらよほどお腹が空いているらしい。レギュラスは殆ど無意識のままにローブのポケットに手を伸ばし、綺麗にナプキンで包んだパンに触れていた。体調が悪いのか、夕食に降りて来なかったセブルスを心配してポケットにそっと忍ばせたパンだったが、目の前で飢えを隠さずに食べ物を探している犬を前にして、レギュラスは意志が揺らいでいた。元々、屋敷しもべ妖精を始め、動物が好きなレギュラスだったから尚更だ。セブルスには申し訳ないが、此処はこの黒犬にあげることにした。

「えーっと…そこの、わん…こ…」

呼び掛ける声が尻すぼみになったのはこの場面を誰かに見られてやしないかと危惧して周囲を見回したからだ。キョロキョロと辺りを窺うが、周囲には誰の姿も無い。ほっと息を吐き、レギュラスは黒犬に視線を戻すと手を招いて呼び掛けた。

「おいで、餌をあげるよ」

黒犬はレギュラスの呼び掛けに警戒するように僅かに毛を逆立てて低く唸っていた。やはり野犬なのだろうか、警戒の程度がそこらの野良犬とは違った。しかしレギュラスにとっては相手が狂暴な野犬だろうと痩せ衰えた野良犬だろうと関係無いらしい。レギュラスはいつになっても警戒を緩めない黒犬に苦笑を漏らすと、ローブのポケットからパンを取り出した。途端に黒犬は唸りを止め、耳をぴんと立てて目を見開いた。鼻はパンの匂いをを嗅ぎ付けて忙しく動いている。

「パンだよ、お食べ」

素直な反応に嬉しくなってレギュラスは黒犬との距離を少し縮めてナプキンから取り出したパンをちぎって指で摘まんでみる。ベーコンが挟み込まれたパンはまだ温かく、犬の敏感な嗅覚はその香りをさぞ拾っているのだろう。黒犬は暫く鼻を動かしながらレギュラスを窺うように見上げていたが、レギュラスが催促するように笑い掛けると一瞬動きを止めた後に静かに歩み寄ってきた。ちぎったパンを数歩手前で立ち止まった黒犬の足元に投げてやると、顔を近付けて匂いを嗅ぎ、確認して勢い良くその一欠片をぺろりと食べてしまった。

「やっぱりお腹を空かせていたんだね」

レギュラスは一人ごちると、今度はさっきより少し大きめにちぎった欠片を手の平に乗せて黒犬に差し出した。黒犬は僅かに戸惑うようにレギュラスを見たが、歩み寄って手の平の匂いを嗅いでから思っていたよりもすんなりとパンを食べた。一瞬、ざらついた舌が手の平を掠めていき、その感触にレギュラスは肩を揺らしてゆるく笑った。それから徐々に距離を縮めていき、黒犬はすっかりレギュラスに慣れたようでパンを食べ終える頃には触れることを許し、頭を撫でるどころか、身体を撫でることさえも許されていた。

「ねぇ、僕の愚痴を聞いてくれるかい?」

パンを食べ終え、口の周りを舐める黒犬の汚れた両前足を持って握手をするように揺らしながらレギュラスは問い掛ける。黒犬は少々不本意そうに握られた己の前足を見詰めていたが、レギュラスの声に顔を上げて鼻をすんと鳴らした。それを肯定と受け取ったらしいレギュラスは僅かに表情を緩めて小さく頷き、黒犬の前足を離して頭を撫でながらぽつりぽつりと不器用に話し出した。途中で言葉を探し、つっかえ、時折苦い表情を浮かべながら自分の兄の話を、黒犬に。

「ねぇ聞いてよ、最近あの人ってばひどいんだ。僕は何もしていないのに、いきなり睨み付けてくるんだよ」

目を伏せ、野犬の割には妙に綺麗な黒犬の毛をもふもふと撫でながらレギュラスは言う。

「いきなりだよ、いきなり。あと廊下ですれ違う時に決まってあからさまに嫌な顔をするんだ。……この前なんて図書館でスネイプ先輩と宿題をしていただけなのに、たまたま鉢合わせたジェームズ先輩とあの人に散々からかわれたんだよ」

そこで言葉を切り、レギュラスは喉に詰まった何かを嚥下するようにごくりと喉を鳴らして唇を強く噛み締めた。それから何かをやり過ごすかのように肩を震わせて息を吐き出して柔らかな黒犬の体毛に顔を埋めて項垂れた。

「―――…ねぇ、どうしてあんなに…」

言い掛けた言葉は紡がれないまま、冷え込んで白みを帯びた吐息となって虚空に消えた。いつの間に冷え込んだ気温に背筋が震え、思わず肩を抱くと黒犬が身体を擦り寄せてきた。レギュラスが緩慢な動きで顔を上げると、つぶらな漆黒の瞳がじっと見上げていた。その虹彩にレギュラスの胸が締め付けられる。まるで薔薇の蕀に囚われたように。

「に…いさ、ん……」

レギュラスの震える唇が名を紡ぎ、伸ばした細い指先が頼りなく揺れて、黒犬の顔の輪郭を確かめるように触れる。揺れる蒼灰色の瞳が潤み、雫が真っ白な頬を伝って流れる。そして透明な涙は顎から落ち、黒犬の身体を濡らした。

「……お前の瞳は、あの人にそっくりだね」

眉を下げ、レギュラスはゆるく笑いながらそう呟いた。端正な顔は混ざり合った幾つもの感情に振り回されてすっかり泣き笑いのような表情になってしまっていた。黒犬はその言葉に応えるようにくんと小さく泣いてレギュラスの涙を舌で舐め取った。ざらついた獣の舌は温かく、あまりにも優しかった。

「っう、……ぅ…っ」

噛み締めた唇は赤味を失って白みを帯び、堪えようとしても堪え切れない嗚咽が並びの良い歯の間から漏れ出した。涙も止まることを知らず、箍が外れたように頬を流れては黒犬の身体と芝を濡らした。レギュラスが涙を流す、それを黒犬はただ見守るように見詰めて時折雫を舐めてじっと傍に寄り添っていた。


×


黒犬の瞳は、夕闇では漆黒に見える。しかしその実は濃灰色をしているのだと、レギュラスが知る由も無かった。


(まるで貴方の瞳のよう)



end.




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