for me to reach



彼は決まっていつも、湖の畔の大木の下に小さな身体を更に縮こめて座り、分厚い本を読んでいた。身体に全く釣り合わない大きさのその本はきっと、新入生の彼には向いてるとは言い難いような難解で複雑な内容が書いてあるのだろう。

真っ白な肌に対比するような漆黒の髪を持つ彼。その綺麗な顔を歪めるように彼が眉間に皺を寄せながら一心不乱に文字列を追い、時折考えを巡らせているのか、何か想いを馳せているのか、ふっと目を細める。その表情はジェームズがどきりとするほどに儚く、頼り気が無い。もし、触れでもすれば一瞬で壊れてしまいそうな、そんな表情だ。勿論、いつも遠くから彼を眺めるだけの自分が彼に触れるなんてことは無いだろう。もしかすると、声も掛けずに終わるかもしれない。貼り付けられた無表情が他人と話す時にはどんなものに変わるのか、黒曜石のような双眸はどんな色を浮かべるのか、細く白い喉はどんな声を、薄い唇はどんな言葉を紡ぎだすのか…何一つ知ることも無いかもしれない。

それでも―――それでも良かった。彼が本を読んでいる、それを眺めているだけで不思議と心が和らいだ。


×


最初に彼を見かけたのは、絵の具を空いっぱいに零したような青空の日だった。
春から夏への移り変わりはあっという間で、じわりと暑い。ジェームズは、背中にじわりと汗が滲み、カッターシャツに貼りつくのを感じて僅かに眉を顰めた。

授業から授業の間に湖畔の近くを通りながら、深く濃い湖面をぼうっと眺める。次の授業は魔法生物学で、嫌いではなかったが気分は重く、だるかった。かったるいとそう思いながら、ふと足元に落ちていた手頃な小石を拾い上げた。掌に納まる小さなそれを握ると、尖った角が皮膚を刺してちくりと痛んだ。自分は何をしているのだろうと他人事のように思いながら小石を数回手中で転がし、腕を振り上げて湖面を滑らせるように投擲した。小石は湖面を撫でるように跳ねながら滑り、やがて沈んでいった。こんなことは久しぶりにやったなと目を細めて石が沈んだ場所を見詰める。すると―――不意に横から視線を感じた。肌をぴりりと刺すような鋭利なそれは、さきの皮膚を小石が刺したのとひどく酷似した感覚だった。ゆっくりと、肌を刺す感覚を感じながら視線を横へと滑らす。

そこに居たのは―――――黒。
大きく、立派な大樹の下には漆黒が静かに座っていた。瞬間、そう感じたのは無理もない。そこに座る彼は暑さなど感じていないのかというほどに涼しい顔でこちらをじっと見上げていた。その瞳は吸い込まれそうな深い漆黒で、滑らかな肌は青白く、その肌を覆うような髪もまた黒だった。なんとなく、不健康そうな印象が強かった。視線を下に滑らせば、カッターシャツのボタンはきっちりと上まで留められ、細い身体をローブが包み、両手で持った分厚い本の向こうには緑と銀のラインのネクタイがあった。

あぁ、スリザリン生か。そう思い、再び視線を彼の顔に戻すと彼はもうこちらを見ていなかった。無表情のままで瞳はひたすらに文章を追い駆ける。単純作業に戻った彼に、もう此方を見る気配は無かった。


×


それからというもの、晴れの日も曇りの日も今にも雨が降り出しそうな日であっても、彼は毎日変わらず畔で読書に勤しんでいた。決まった定位置、姿勢、本の持ち方、表情で。

初めは、そんなにこの湖畔や芝生、もしくは大樹や風景が気に入っているのだろうかと思っていたが、すぐに違うと気が付いた。彼の双眸は周囲の景色など微塵も見ていない。寧ろ視界すら景色などは入っていないようだった。ただの一瞥さえも、しない。まるでそれさえも惜しむかのように、彼は見ていなかった。例え、ゴーストや妖精が飛び回っていようと、喧しい生徒達がゾンコの悪戯専門店で買い占めた玩具で騒がしく遊んでいようと、彼はいつであれその騒ぎも声も全く聴こえていないかのように―――否、本当に聴こえていないのかもしれない―――本に没頭し続けるのだ。

そうやって彼が執拗に周囲と自分を隔絶することには一体どんな理由があるのか。それは意図せずとも明らかとなった。

彼はただ、興味が無いのだ。興味があるものには貪欲なまでの執着を見せる彼だが、対して興味が無いものには全く関心を寄せない。理由は恐ろしいまでの、無関心。ジェームズは此処まで周囲の人間にも状況にも関心が無い人間を初めて見た。きっと彼は、事故や天災が起きようとも無関心を貫き、自己が造り上げた自分自身の世界という堅く、狭い殻に閉じこもり続けるのだろう。

氷の如く冷え切った彼の心が揺さぶられるようなことが起きない限り、彼の関心を他に向けさせることなど到底不可能だと思えて仕方なかった。

しかしジェームズのその考えはあっさりと覆された。彼の心は冷え切ってなどいなかったのだ。


×


「また、難しい本を読んでいるの?」

響いたのは凛とした澄んだ声。
振り向けば、1人の少女が丘を登りながら彼に声を掛けていた。長く艶やかな髪は風にゆったりと揺れ、端正な顔は優しげな微笑を称えていた。

彼のクラスメイトだろうか。ならば、たかがクラスメイトなどに彼が反応するわけがない。前にも声をかけていた男子生徒が居たが、彼が全く気付かなかった為に意図せず無視を決め込んでいた。今回だってそうだろう、彼が反応するわけがない。第一、声を掛けられようとも気付かないのだからぴくりとも動かない。そう思っていた。当たり前のように、そう思っていた。

しかし彼は反応した。

「―――…リリー」

ゆっくりと顔を上げ、黒曜石の瞳が真っ直ぐに少女を捉える。

「もう、セブったら返事が遅いわよ。貴方はいつもそう。私の話なんて聞いていないもの」

セブ、というのは彼の愛称なのだろう。
丘を登り切った少女が不満げにむくれて呟きながら彼の顔を覗き込むと、僅かに身じろいだ彼が歯切れ悪く聞いていないわけじゃない、とぎこちなく返した。だが瞳は少女を見ておらず、湖面をじっと見詰めていた。

「…ふぅん。まぁいいわ。許してあげる」
「……君は時々、ひどく偉そうな物言いをする」
「あら、偉そうで結構よ」
「…何を怒っている?」
「別に怒ってなんかいないわ。呆れているだけ。……ねぇセブ、隣に座ってもいいかしら」
「―――あぁ」

彼が頷くと少女は柔らかい笑みを浮かべてすとんと彼の横に腰を下ろした。少し身体を動かせば肩同士が触れ合う距離だった。

「また魔法薬学の本?」
「あぁ」
「…この本、すごく文字が小さいわ。読みにくくはないの?」 
「別に…この本は他に比べれば大きい方だよ」
「ええっ、これで大きいの…!?」
「…君はもう少し本を読むべきだ」
「よ、読んでるわよ…!」
「どうせ君が読んでいるのは童話の類だろう」
「う…どうして分かるの」
「勘だよ。それに、君は分かりやすい」
「わかっ…失礼ね!」
「事実なのだから仕方ないだろう」
「っ…減らず口…!」
「はいはい」

恨みがましくきっと睨み付ける少女に参ったように彼は溜息を吐き、彼女が手にしていた本を手に取った。

「あっ」
「……懐かしいな」
「懐かしい…って、セブも読んだことがあるの?」
「あぁ、この本は魔法族の一般家庭なら大体は幼少の頃に読んでいるはずだよ」
「そうだったの……マグルの世界にも童話はいっぱいあるんだけど、私はこの世界の童話の方が好きだわ、すっごく面白いもの。マグルの童話が霞んじゃうくらいよ!」
「…そうか」
「えぇ!」

にこにこと笑みを絶やさずに話す少女は実に楽しそうだった。そんな彼女の話を静かに聞く彼も満更ではないようで、驚くことに僅かな笑みを浮かべた。そこには今まで見てきた暗い色の瞳も堅く引き結ばれた無表情も無かった。

あぁ、自分がずっと見てきたものは何だったのだろう。そう思わせる笑みだった。

「でも、やっぱり小さい頃から本が好きだったのね」
「そうだな。ずっと読んでいた」
「やだセブ、今もじゃない」
「…そうだけど」

今度は彼がむっつりとなる番だった。
少女はくすくすと笑いながら彼の黒髪へ白魚のような指を伸ばした。その指が髪に触れると彼は微かに身体を揺らしたが、彼女が優しい手つきで髪を梳き始めると、目を細めて肩の力を抜いた。

「何をしているんだ」
「別に?」
「―――…」

彼が無愛想な台詞とは裏腹に柔らかな声で問い掛け、少女は嘯くように答える。それに対して何か言いたげに開きかけた彼の唇に少女が指を当てる。しーっ、と微笑まれて彼がやむなく息を吐く。

その風景は、どうしようもなくうつくしかった。彼の造った世界に自然に入っていけるのは彼女だけなのだと、まざまざと見せつけられた気分だった。

そう、最初から不可能な話だったのだ。

彼に触れることなど。


×


初夏の風が頬を撫でる。
優しいはずの風が、小石の角よりも強い痛みを確実に残していった。


(触れることすら赦されない)



end.




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