夢のあとさき



夢を、見た。
いつも見ているような記憶を遡るものとは異なる。それは"彼"が消えてしまうものだった。

「本当に、嫌な夢ばかり見る…っ!」

反射的に跳ね起きたせいで、心臓はばくばくと忙しない鼓動を繰り返していた。背中の肩甲骨の間を嫌な汗が流れ落ちていくのを感じる。額や手にもじっとりと汗が浮かび、吐き気に似た気持ち悪さまで込み上げてきた。疼痛に似た感覚を覚えて胸を抑え、僕は前屈みになって必死に呼吸を繰り返す。

「っ、う……」

夢が現実になる、なんて思っちゃいない。四千年の記憶を繰り返し見てきた身からすれば夢なんて記憶の整理と定着のための作業だ。そう、理解していたはずなのに。こんなのは酷すぎるじゃないか。やっとのことで手に入れたばかりの"彼"を、この世で最も大切な存在を失う夢を見るなんて。

「―――あんまりだ」

こんなに悪趣味な夢は"あいつ"の悪戯だろうか、そう思いかけて自嘲する。あぁ、きっとそうじゃない。僕自身が抱いている恐怖が意識の底から湧き上がってきたせいだ。頭の片隅では冷静に理解しているのに、それでも身体の震えは止まってくれやしない。嫌な胸騒ぎもざわざわと収まることはない。見上げた先の窓の外では大きな満月が煌々と輝いている。まるで恐怖に慄く僕を嘲笑っているようだ。大きく息を吐き出し、僕はシーツの海から抜け出す。足の指先が冷たい床に触れた瞬間だった。静謐な空間にカツンという硬質な音が響き渡る。たった今、背を向けたばかりの窓に何かが当たる音だった。僕は咄嗟に身を硬くし、音がした方向をゆっくりと振り返る。

「誰…?」

木々が大きくざわめいて揺れるが、それが風によるものではないのは明白だった。不自然に何度も揺れ、やがてその木から大きな影が姿を現した。バランスを崩すことなくしっかりと地面に着地し、月光を浴びた橙色の髪がふわりと鬣のように揺れる。その髪の間から覗いた瞳は紺碧のような深いブルーに輝いていた。どうして、彼がここに?僕が呆然と呟くと、ヨザックは声が聴こえたように柔和な笑みを浮かべる。厳重な鍵を器用に開錠し、煤色のマントを翻して滑り込むように部屋へと侵入した。

「夜分遅くに、ご無礼をお許しください」

至極真面目な表情を浮かべ、グリエ・ヨザックは恭しく頭を下げる。それから髪や服についた埃や葉を払い落として、こちらに顔を向けた。磨き上げられた石の床が汚れていくが、そんなことはどうでもよかった。

「ヨザック…?」
「お久しぶりですね、猊下」
「だって、きみ、シマロンの偵察に行っているんじゃ」
「そうです。でもオレ、超有能なので予定よりも早く帰ってこれたんですよ」

快活に笑ってヨザックはマントを脱ぎ捨てた。見慣れない服装をしていて、頬には新しい切り傷が増えている。僕は冷たい床に降り立ち、引き寄せられるように彼の元へ歩み寄った。ヨザックは流れるような所作で床に跪き、僕の顔をじっと見上げる。射抜くような視線に構うことなく、僕は彼の頬に触れた。塵や煤で汚れている肌のざらついた感触。それから塞がったばかりの瘡蓋の硬い感触。ヨザックへ触れることで、今この時が夢でなく現実なのだという実感が僕の手元へと落ちてくる。そして、先ほどまで見ていた"あれ"は夢なのだという確信も。

「お手を汚してしまいます」

諫めようとする彼の声を聞いてもなお、僕の腕は動いていた。頬から逞しい首、肩に触れる。温かな体温を確かに感じて、忙しなかった鼓動が少しずつ落ち着いてくる。憂わしげに見上げている彼の視線を無視して、広い胸に縋るように手を伸ばす。体勢を崩して僕を受け止めたヨザックは、僕の背中にそっと触れる。みっともなく震える僕の肩に気が付いたのだろう、小さく息を呑む声が聴こえた。

「―――猊下…」

僅かに躊躇していた彼に強く抱き着くと、観念したような溜息が漏らされた。と同時に僕の身体は強く引き寄せられる。大きな掌が僕の背中を宥めるように何度も撫で、触れた腕や胸から熱いほどの体温が伝わってきた。何も言わずに身を預けていると、不思議とささくれ立っていた気持ちが凪いでいくのを感じる。賢いヨザックは辛抱強く僕を受け止めたまま口を閉ざしていた。やがて彼の手がゆっくりと僕の両肩を掴み、僅かに身体を引き離す。月光を浴びて明るい色になったヨザックの瞳が、そっと眇められる。僕からの言葉を待っているのだと、言外にも理解することができた。

「おかえり、ヨザック」
「……えぇ。猊下も、お戻りになられていたんですね」

埃や土の匂いに混ざって香る、独特な彼自身の香りを感じて不意に涙腺が緩みそうになる。唇を噛み締めると、窘めるように彼の太い指が顎に触れた。いけません、猊下。幾許か鋭い声色が僕を叱咤する。僕の視界はじんわりと涙で滲んでいく。橙色の彼の髪が蝋燭の炎のようにゆらゆらと揺れた。涙が頬を濡らす感触を覚えて僕が俯くと、ヨザックの指先が涙をそっと拭う。

「……貴方の気持ちを、オレなんかが理解しようとすること自体が畏れ多いです。でも、貴方は我慢することに慣れすぎている。それだけは分かります」
「ヨザック、」
「どうしてって仰いましたね。何故オレがここにいるのかと」

答えをお教えいたしましょう。顰められた低い声がそう囁いた。

「猊下が、泣いてる気がしたから」

鼓膜を揺らしたその言葉に、僕はゆっくりとおとがいを上げる。ヨザックは柔和な笑みを浮かべながら僕の頬を撫でた。頬を濡らしていた涙が拭われていき、僅かにひりつくような感触だけが皮膚に残される。導かれるように彼の首へ手を伸ばし、寄り縋るように抱き着いた。しがみつくという表現が相応しいほどの力を込めてしまったのに、ヨザックは少し困ったように微笑むだけだった。

「我慢なんてしないで」

あぁ、どうしてだろう。きみの言葉だけでこんなにも心が軽くなる。

「オレの前でぐらい、素直に泣いてください」

昏い悪夢も暗澹たる憂鬱も、まるで迷妄みたいに消え失せてしまう。


end.




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