Un morceau de sucre,ca vous suffit?



今すぐにここから逃げ出したい。折原臨也がこれほどまでにそう強く願ったのは、今この時をおいて他には無いだろう。お気に入りのコートのフードを深く被り、俯き加減で歩く横には長身の男。これまたニット帽を目が隠れるほど深く被っている男の横顔は、臨也の恨めしそうな視線を感じてゆるく笑ったように見えた。腹立たしい気持ちが込み上げてきて脛を蹴り上げてやろうとしたが、軽々と躱されてしまってぐうの音も出ない。ぎゅうっと握り締めた拳を震わせながら、臨也は深い溜息を吐き出した。

「随分とお怒りのようだな、折原」
「当たり前だろ!あれほど池袋を通りたくないと言ったのに……!」
「しかしここを通らなければ取引先へは行けない」
「他のルートもあったはずだろう……?」
「遠回りになるだろう。時間が無いんだ」
「24時間チャットルームに入り浸っている男に言われても説得力の欠片も感じられないな」
「あれも仕事のうちだからな」
「よくもそう簡単に口が回るな、お前は」
「折原にそう言われるとは光栄だ」
「褒めてない!」

今にも殴りかかりそうな勢いで噛み付いてくる臨也を飄々とした態度であしらいながら、九十九屋真一は笑みを零した。秋風に揺れるトレンチコートは良質そうな素材でできていて、身長の高さも相俟って周囲の目を引く。フードで顔を隠していなければ整った美貌の臨也の方が目立っていただろうが、気配さえも押し殺している臨也はあまり注目されていない。顔は見えにくいが、言い難いオーラのようなものを纏って闊歩する九十九屋は目立って仕方がなかった。

「九十九屋、お前わざとやっているだろう。そんなに殺されたいのか」
「なにをだ?それに一体、誰に殺されると言うんだ?」
「……俺が殺すならまだいいだろう。それよりも問題は「おや、折原」
「おい!人の話は最後まできっ……」

自分を相手にしようともしない九十九屋に苛立った臨也が声を荒げた瞬間、顔の横を何かが掠めて背後の看板に直撃した。けたたましい金属音が響き渡り、ガランガランと看板がアスファルトに落下する音が聞こえる。一気に込み上げてきた嫌な予感に臨也が九十九屋の視線の先を見れば、金髪にバーテン服の男がこちらを睨んでいた。陽の光を浴びて眩しいほどに輝く金の髪の奥で、ぎらぎらと肉食獣に似た瞳がサングラス越しに臨也を射るように睨む。男が手に握っているのは鉄パイプらしく、さっき投げられたものは今手にしているものを"引き千切った"ものだったらしい。

「うわぁ…………シズちゃんだ……」
「ほう、噂に名高い池袋最強の男か」
「……俺が今更それを説明する必要があるか?」
「――――それもそうだな」

禍々しいオーラを発しながらじりじりと近寄ってくる平和島静雄。臨也と九十九屋はお互いに目も合わせずに静雄との間合いを計ると、静雄が鉄パイプを振り回す直前に逆方向へと一気に駆け出した。最初から臨也しか見えていない静雄は九十九屋の存在など気にもかけておらず、全力疾走したのは臨也だけだったが。千切ってもなお長さのある鉄パイプに追いかけられながら、臨也は得意のパルクールでビルからビルへと軽々と飛び移っていく。背後からさっきまで足を掛けていた看板が吹っ飛ばされる音や、電柱が抉られる音が聞こえてきたが振り返れば一巻の終わりだ。臨也は確実に次の着地の足掛かりを探しながら遠くへと走り、跳び、逃げ回った。大通りから路地裏に入れば、鉄パイプが大振りなせいで動き辛いのか静雄は少し遠ざかった。それでも気は抜けず、臨也はより自分が動きやすい暗所へと向かい、廃屋や廃ビルの中を抜けながら静雄をどうにか振り切った。しかし動悸と汗が治まらず、神経を研ぎ澄ました状態のままで臨也は暫くのあいだ廃ビルの屋上で座り込むほか無かった。


×


九十九屋と別れてちょうど一時間後、携帯に着信があった。相手は言うまでもなく九十九屋で、こちらは無事だから戻ってこいとのことだった。集合場所は池袋駅で、時刻は夕方を回っている。あの人混みの中であれば紛れることは容易いだろうし、静雄が居合わせたとしても動くに動けないだろう。そう判断した臨也は周囲に人影がいないことを慎重に確認し、池袋駅へと向かった。


×


池袋駅前は喧騒に包まれていた。人混みの中から長身の男を見つけ出すのは簡単で、臨也はすぐに九十九屋と合流することができた。臨也がぼろぼろになったコートの裾を叩きながら九十九屋に悪態を吐いていると、九十九屋の背中からひょっこりと女が顔を覗かせた。

「狩沢……?お前、なにしてるんだ」
「いやぁイザイザ久しぶりだね!あっボロボロじゃない!なになに、またシズシズと喧嘩しちゃったの!?ドメスティックラブバイオレンスったの!?」
「意味が分からない。……どうしてお前がこいつといる?」
「こいつ、ってこのお兄さん?道を教えてあげたんだよー」
「道を……?九十九屋、お前まさか池袋駅までの道が分からなかったのか?」
「流石に路地裏から抜けたら迷ってね。たまたま止まってたバンに乗ってたお嬢さんに訊いたんだよ」
「あ、さっきまでドタチンもゆまっちもいたんだよ!今はちょいとコンビニ行ってて……あ、渡草っちはルリちゃんのライブなんだって!」
「別にそこまで訊いてないけど……まぁいいや、じゃあドタチンによろしくね。もう行くから」
「あ、ちょっと待ってイザイザ!」
「……なに、」
「そっ、そのお兄さんとは、どういうご関係で!?」

頬を紅潮させながら目を輝かせる狩沢に、九十九屋は興味深そうな顔をした。しかし精神も身体も疲れ果てた臨也には笑い飛ばす余裕など無かったらしい。絞り出した低い声にありったけの怒りを乗せて吐き出した。

「…………狩沢、いい加減にしないとキレるよ?」

その気迫にびくついた狩沢が硬直し、九十九屋が声を掛けようとすると、狩沢の背後から門田が歩いてくるのが見えた。後ろにはコンビニキャンペーンのアニメグッズらしきものを振り回している遊馬崎も見える。その遊馬崎の後ろには、これから露西亜寿司に連れていってもらうらしい高校生三人組も見えた。帝人は目敏く臨也に気付いたが、正臣は杏里を口説いているらしくこちらに気付いてはいない。臨也は門田に軽く挨拶だけをして、九十九屋のコートの袖口を引っ張った。余程疲労がピークなのだろう。何も喋りたくないらしく、長居もしたくないらしい。九十九屋は狩沢にだけ会釈をすると、臨也に引き摺られるように池袋駅へと歩いていった。


×


帰宅ラッシュに揉まれては臨也の体力が持たないだろうと判断した九十九屋は、ふらふらと歩く臨也をカフェに連れ込んで取引先に断りの電話を入れた。幸い急ぐような取引ではなく、たまたま臨也と行けそうだから今日出掛けただけにすぎない。電話を終えて席に戻ると、臨也はぐったりと机に突っ伏していた。汚れたコートは脱がせたが、インナーも砂埃や煤で汚れているようだった。一体どこを逃げ回ってきたのだろうと呆れてしまう。寝ているわけではないだろうが、目を閉じているので前髪に触れてみると、唸るような声が上がった。

「やめろ、触るな……」
「減るもんじゃないだろう」
「嫌だ、お前に触られると減る気がする」
「おや、それは俺限定なのか?」
「自惚れるのもいい加減にしろよ九十九屋……ああもう、本当に疲れた……」
「カフェオレでも頼んでやろうか。甘いものが欲しくはないか?」
「…………腹減った」
「じゃあサンドイッチかホットドックにするか。俺も何か頼むとしよう」

九十九屋はウエイターを呼びつけ、メニュー表から適当に注文すると再び臨也の髪に手を伸ばした。ぴくりと眉が神経質そうに動かされるが、振り払う気力もないのか臨也は黙ったままだった。頬の皮膚が切れているのは鉄パイプが掠めた時の怪我らしい。時間が経っているのに血が固まっていないのは激しい運動や汗のせいだろう。ざっくりと切れていないのは幸いだが、臨也はまったく気付いていない。そっと撫でるように傷に触れると、痛みに臨也は勢いよく顔を上げた。

「痛ッ……!」
「頬、切れてるぞ」
「…………ああ、そうか」
「黴菌が入ったら化膿するぞ。ほら、じっとしていろ」
「おい、九十九屋……」

あからさまに面倒くさそうな顔をする臨也の顎を掬い上げ、九十九屋は口をつけていないグラスの冷水をティッシュに含ませて傷口に添えた。じわりと滲み出した血液がティッシュに付着したが、絆創膏で塞いでしまえば問題はないだろう。ぺたりと絆創膏を貼られ、臨也は嫌そうに眉を顰めた。

「……あー……みっともない」
「どうせまたフードを被るんだから目立ちやしないだろう」
「そうじゃない」
「じゃあ何が不満なんだ?」
「俺の美意識に反する」

臨也はぶつぶつと呪詛のように呟いていたが、カフェオレとサンドイッチが運ばれてきたことで少しは機嫌が良くなったらしい。九十九屋の分のサンドイッチが運ばれてくるのを待たずに食べ始めた。疲労もあったが、腹が減っていたことも機嫌の下降に繋がっていたらしい。臨也はあっという間にサンドイッチを食べ終え、カフェオレを啜りながらメニュー表のデザートに目を通しはじめた。九十九屋の奢りだとよく食べるようになるのはいつものことだ。

「九十九屋、デザートは食べないのか?」
「俺はまだ帰ったら仕事があるからな。夜食がてら適当に何か食べるさ」
「普段は食べるのに珍しいな」
「気分だよ。それにしても折原、最近よく甘いものを食べるな」
「いや、お前と一緒の時ぐらいしか食べないぞ」
「…………俺と一緒の時だけ?」
「だってお前、いつも何かしら俺に勧めてくるじゃないか。だから……」

そこまで言ったところで臨也はぴたりと動きを止め、メニュー表からゆっくりと顔を上げた。失言した、とばかりに気まずそうな表情をする臨也は、まるで悪戯を見つかった子どものようだった。メニュー表をゆっくりと持ち上げて顔を隠そうとする臨也の右手を掴んで、九十九屋は臨也の顔を覗き込んだ。熟れた林檎のように真っ赤になった臨也は目が合った瞬間に顔を逸らそうとしたが、九十九屋のほうが一瞬早かった。掴んだままの臨也の右手を引き寄せ、そっと口付けた。カフェオレの甘みが残る唇をそっと舐めてやれば、臨也はびくりと肩を震わせて九十九屋の肩を押し返した。臨也はメニュー表を頭に被るようにうつ伏せになったが、覗いた耳朶は真っ赤なままだ。そのことに九十九屋は満足気な笑みを浮かべると、通りかかったウエイターを呼び止めた。

「ストロベリーサンデーをひとつ、」

恋人の耳に吹き込むように、そう囁いた。


end.



title by JUKE BOX.




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