The corner is poked



昼下がりの穏やかな陽光が差し込む室内は、昼過ぎだというのにやや薄暗い。古紙の独特な香りと埃っぽい空気が充満する閉架式の書庫は、彼女のお気に入りの場所だった。長く豊満な金の髪を揺らしながら、ヘルガ・ハッフルパフは分厚い本を何冊も抱きかかえて嬉しそうに歩き回っていた。彼女の細い腕には重いだろうに、そんな表情は少しも見せない。そんなことよりも文献を読めることが嬉しくてたまらないのか、また立ち止まっては本棚を見上げては本を探す。呪文学の本を探しているのか、呪文の頭文字を呟きながらヘルガは細い指で本の背表紙を撫ぜていく。そうしてようやくお目当ての本を見つけたらしく彼女は手を伸ばすが、あと5センチほど届かない。必死に背伸びをするが、そちらに集中していたせいで抱えていた本が腕の中から擦り抜けて落ちてしまった。どさっ、と重い音を落ちた本を慌てて拾い上げようとして、彼女はまたもや本を落とす。今度は落とした本の背表紙がブーツめがけて落ちてきて、ヘルガは思わず悲鳴を上げた。痛みに身体の力が抜け、彼女はへたり込んでしまった。目尻に薄らと涙を浮かべ、俯いてじっと痛みを堪えた。この時間の図書室には誰もおらず、彼女もそれを分かっていたからこそ訪れたわけだが、今日ばかりは自分自身を恨んだ。閉架書庫に来たのは初めてだとはいえ、今まで目にしたことのない文献が多いであろうことは分かっていたのだからロウェナを連れてくればよかった。そんな、ロウェナにとっては迷惑極まりないことをぼんやりとヘルガが思っていると、ふっと頭上に影が落ちてきた。足音も聞こえず、気配すら感じなかった彼女が慌てて顔を上げると、陽光に照らされて純白に輝く銀の髪の青年がこちらを見下ろしていた。

「……さ、サラザール……?」
「何を蹲っている」
「あ、えっと……足の上に本が落ちてきて……」

ヘルガの言葉を聞くと、サラザールは僅かに眉根を寄せて何事かを思案する様子を見せた。それから高級そうなズボンが汚れるのも構わず、膝をついて彼女の顔を覗き込む。滑らかな金の髪を掬い上げ、じっと紅玉のような瞳がヘルガを見つめる。伸ばされた冷たい指が頬に触れ、ヘルガが思わず肩を揺らすとサラザールはぴたりと指を止めた。

「……なぜ泣いている」
「えっ?」
「痛みのせいか」
「そう、だけど……サラ……?」

戸惑うヘルガをじっと見つめた後、サラザールは指をひいて彼女の身体を引き起こした。足に力が入らずにヘルガはサラザールの胸に倒れ込んでしまうが、サラザールは特に気にした様子はない。彼女の髪を梳いて顔を上げさせると、医務室へ行くかと問いかけてきた。ヘルガがそこまでの大事じゃないわ、と返すとサラザールは黙って頷いて彼女を軽々と抱き上げた。突然のことにヘルガは慌てて声を上げるが、サラザールは気に留める様子もない。サラザールはそのまま窓辺の席までヘレナを運んで座らせると、散乱した本を拾い上げて机の上に重ねた。

「あ……ありがとう、サラ」
「本当に医務室に行かなくていいんだな」
「えぇ、捻挫しているわけではないし……一時的な痛みだと思うわ」
「腫れてはいないのか」
「それはブーツを脱がないと分からないけれ……サラ!?」
「念の為に確認しておく。痛みが引かないようならば、私が治してやろう」
「え、ええっ」

ヘルガは今日の彼はどこかおかしい、と思いながらも丁寧にブーツの紐を解いていくサラザールの旋毛を見下ろすほかなかった。器用な指先は滞りなく紐を解き、ブーツと靴下を脱がせる。現れた彼女の真っ白な素足には薄らと赤みが差しており、サラザールがそっと触れるとヘルガは痛みに声を上げた。

「やはり腫れていたな」
「うっ……」
「泣くな、今治してやろう」

ヘルガが痛みに涙ぐみながら目を丸くすると、サラザールは一瞥した後に彼女の足にすっと手を翳した。しかし彼の唇は詠唱の為に開かれるわけではなく、真一文字に結ばれたままだ。ヘルガが驚いていると足がふっと軽くなり、あったはずの熱が静かに引いていった。サラザールは手を引いてヘルガを見上げると、足を動かしてみるように言った。言われるがままにヘルガが恐る恐る足を動かしてみると、痛みはまったく無い。指先を折り曲げても、振ってみても普段通りに動かすことができる。

「わぁっ……!」
「もう痛まないか」
「えぇ、凄いわサラ。今のはもしかして……無言呪文……?」
「そうだ」
「まぁ素敵!私もまだ使えたことがないのに!」
「……しかしお前は筋がいい。すぐに使えるようになるだろう」

ほんの僅かに目元を緩め、サラザールは柔らかな口調でそう言った。その表情が少しだけ笑ったように見えて、ヘルガはまたしても驚きを隠せない。しかしそんな彼女に構うことなくサラザールは靴下とブーツを元通りに履かせると、立ち上がってズボンの埃を払った。ようやくこちらに視線を戻したサラザールが怪訝な顔をしたことで、自分がよほど間抜けな顔をしていたことに気付いてヘルガは慌てて立ち上がった。足にはまったく不具合など見当たらない。すごいなぁと思いながら、ヘルガはサラザールのローブの袖を軽く引いた。

「なんだ」
「あっ、あのね、お願いがあるのだけれど……」
「……言ってみろ」
「向こうの書架に、届かない本が一冊あって……その、取ってほしいの」
「分かった」

サラザールは頷くと、ヘルガの指差した本を棚から取って渡した。ようやく目当ての本を巡り会えた喜びでヘルガがその本をぎゅっと抱き締めると、頭上から呆れたような嘆息が聞こえてきた。不思議に思って顔を上げると、端正な顔を曇らせてサラザールが彼女を見下ろしている。呆れたような、怒っているような表情にヘルガは少しだけ怖くなって身を竦めた。眉間に皺を寄せてじっと見下ろしてくるサラザールにヘルガが怖々と呼びかけようと時、サラザールの手が彼女の身体を抱き寄せた。突然のことにヘルガは、受け取ったばかりの本をまた落としそうになった。ギリギリで手に力を込めて持ち直したが、今度は本を抱いているせいで動けない。何よりもあのサラザールに抱き締められている、という事実が彼女を混乱に陥れた。温かな体温に包まれ、腰を抱き寄せる腕の力は痛くはないがしっかりとしていた。ヘルガはほとんど硬直していて身動きすることもできず、声を発することもままならない。サラザールの方も黙ったままで、たっぷりの静寂が図書室に訪れた。そうして、何十分にも感じられた沈黙を破ったのはサラザールの方だった。腕の力を僅かに緩め、身体を引いてヘルガの顔をそっと覗き込んできた。彼女は真っ赤な顔を見られるのが恥ずかしくてサラザールの腕に顔を埋めてしまい、それが更に恥ずかしくなって勢いよく顔を上げてしまった。結果としてばちり、と赤い瞳に捉えられて目を逸らせなくなったヘルガはそのまま固まってしまった。

「――――ヘルガ、」

彼女の細い顎を冷たい指先が撫でるような優しさで持ち上げる。今まで聴いた事がないほどの優しい声色で名を呼ばれ、ヘルガはまたしても驚かされる。掠れる声で精一杯、彼女が答えると満足そうにサラザールは目を細める。それからすっと顔を寄せると、ヘルガの頬へ口づけを落とした。柔らかで熱い感触が一瞬触れたと彼女の頭が認識するよりも早く、サラザールはヘルガを解放するとローブの裾を翻して去っていく。

彼女の耳元に低く、甘い囁きだけを残して。

呆然としたヘルガは目をぱちくりとさせ、胸に抱いた本を抱き締めたままでその場に立ち尽くすほかない。耳朶に吹き込まれるように囁かれた言葉が、脳髄の奥まで甘く響き渡るような感覚は彼女をひどく困惑させた。夢見心地な頭のまま、まだ熱いような頬に触れるがキスをされた実感はまったくない。まるで白昼夢に包まれてしまったような気持ちのまま、彼女は本棚に凭れて熱い顔を覆う。

「…………夢、だったのかしら」

緩やかな陽光に包まれながら、ぼんやり彼女はそう呟いた。


end.



title by JUKE BOX.




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