曇天



身体はすっかり芯まで冷えきっている。豪雨と言っても過言ではない雨の中、私は必死に走っていた。転けた時に擦りむいた傷がじくじく疼く。皮膚を伝う感覚はきっと血なのだろう。痛みに顔を顰め、しかし走る速度を落とすわけにはいかない。伸びすぎた前髪が視界を遮るように揺れる。

鬱陶しさに髪を掻き上げると、雨粒が目に入って痛かった。


×


「あッ……!」

無我夢中で走っていたせいで地面のぬかるみに気付かなかった私は、足を取られて泥の中に倒れ込んでしまった。真っ白だった上着とスニーカーはたちまち泥の色に染まる。慌てて立ち上がろうとするが、泥に気を取られたせいで今度は腕に抱えていたモンスターボールを落としてしまった。泥の中に沈みそうになるボールに手を伸ばすが、届かない場所に転がってしまったあと一個が拾えない。這い蹲るように必死になって手を伸ばし、中指がボールの頭に触れたと思った瞬間、空を切り裂くような雷鳴と光が襲った。爆音のようなそれに硬直してしまい、ボールが見開いた目の先で泥の中に沈んでいく。拾わなきゃ、急がなきゃいけない、そう分かっているのにショックに冒された身体は動いてくれない。何度も何度も鳴り響く雷鳴が怖かった。びりびりと地面を揺るがすような音と閃光が、恐ろしくてたまらなかった。寒さと恐怖で震え出す身体を叱咤して、懸命に手を伸ばす。動け、動け、動いてよ……ッ!!絞り出すようにそう叫びながら指を伸ばす。

そんな私の目の前で、モンスターボールは泥の中に呑み込まれていった。

一気に体温が下がっていった。唇が震えて、意味朦朧な言葉ばかりが溢れてくる。必死に藻掻いても足は抜けず、沈んだ場所に手を伸ばしても、もう届くことはなかった。弱まることのない雨が叩き付けるように降り注ぐ。雷鳴も止むことを知らず、私の無力を嘲笑うように空を切り裂いていく。急速に、身体の力が抜けた。伸ばした指先は力なく泥の中にびちゃりと落ち、身体を支えていた腕にも力が入らない。限界だった。なにをやっても上手くいかない。私にはきっとポケモントレーナーの資格なんて無いのだろう。手持ちを守ることすらできない私は、ただの脆弱な存在でしかない。脆くて、弱くて、そして哀れで。力なく俯けば、目の縁から雫が溢れてきた。この雫が雨だろうが涙だろうが、もうどうでもよかった。このまま流れてなくなってしまえばいい。弱い私は、このまま消えてしまえばいい。

「何をやっている」

感情を一切排したような声に、びくりと肩が跳ねた。頭上にふっと落ちてきた影を見上げるが、黒衣に身を包んだ相手の顔は雷光で見えなかった。ただ見上げることしかできない私を暫くのあいだじっと見下ろしていた相手は、呆れたように息を吐いた。そして泥にまみれた私の腕をなんの躊躇いも無く掴むと、乱暴に引き上げた。肩が抜け落ちるぐらいの粗雑さだったが、足も泥から抜け出したようだった。しかし泥から抜け出してすぐに地面を踏むことが叶わず、私はそのまま相手の胸の中に倒れ込んでしまう。思わず目を瞑るが、拒絶することなく相手は私を受け止めた。恐る恐る顔を上げると、濃灰色の瞳が鬱屈そうに私を見下ろした。燃えるような赤髪は、雨に濡れて血のように濃く染まっている。私の腕からそっと手を離して、彼は目を細めた。冷酷な色を孕ませたままで、私を見据える。

「情けないな」
「…………ごめん、なさい」

掠れそうになる声で呟くと、彼は呆れたように目を伏せた。それから私の頬に手を伸ばして、やはり乱暴な手つきで皮膚を擦った。

「ッ、な、に……」
「泥。今のお前は、本当に無様だな」

口角だけを持ち上げて嘲笑するように吐き捨てると、彼は私の肩を突き飛ばした。よろけながらも私が地面に足をつけて立つと、彼は泥の中からモンスターボールを拾い上げた。面白そうに、検分するようにボールを眺めていたが、私がこちらを見ていることに気がついて微かに嗤った。

「盗るとでも思ったか」
「……いいえ、思わないわ」

泥に塗れたボールを手中で弄ぶように転がしながら、彼は目を逸らした。瞳と同じ灰色の空を見上げながら、呟くように問いかける。

「……何故、そう言い切れる」
「――――――……」
「答えられないか」
「多分、その理由はあなたが一番よく知っているはずよ」

私の言葉を聞くと、彼は黙って目を閉じた。しとどに雨を浴びる横顔が何を思っているのか、私には分からない。それでも何かを憂うような、厭うようなものを感じずにはいられなかった。

「オレはお前のそういうところが気に食わない」

彼は目を瞑ったまま、囁くようにそう言った。伏せた目がどんな色をしているのかは分からなかった。投げられたボールがぱちん、と小気味のいい音を立てて私の手の中に落ちてくる。それは先ほどまでのように乱暴な扱いをされていなかった。

私の横を通り過ぎ、彼は静かに去っていった。別れの言葉もなにも無く、黙ったまま背を向けて遠ざかる。陰鬱な空の色によく似た彼の瞳は、きっと今も顰められたままだ。闇を纏うような背中を見送りながら、私は静かに涙を流す。

どんな慰めの言葉より、優しい抱擁より、彼の粗暴で飾らない言葉が嬉しかった。


end.




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