Slight fever



僅かに開いた隙間から覗いた、彼の表情が後悔に切り替わった一瞬を俺は見逃さなかった。

勢い良く扉が閉じられる前に左足を突っ込んだ。ガンッ!と凄まじい音が響くが、俺の足には衝撃が伝わっただけで痛みは訪れない。苦々しい表情の彼が俺の履物に目を落として、珍しく目を見開いた。紛れもない、彼に頼まれた仕事で用意した安全靴は硬くて丈夫だ。例え、思いきりドアに挟まれたとしてもそんな衝撃など簡単に霧散してしまう。ゆっくりと目線を上げた彼は、今まで見たことがないぐらいに不機嫌さを全開にしていた。普段の貼り付けたような笑顔もどこかへ言ってしまったらしい。ここまで余裕を無くした彼を見られるのは今だけだろう。その原因が、突然の俺の来訪だけとは思えないが。

「…………帰れ」

低く呟かれた言葉は命令だった。威圧と嫌悪が滲む声色に背筋が冷たくなるが、ここで引くわけにはいかなかった。拳をぎゅっと握り締め、手にしていた二つの袋を彼の眼前に突き出す。がさりと音を立ててビニール袋が揺れた。白いそれをじっとりと見詰める彼の瞳はルビーのような赤だが、薄らと充血している。頬や首筋の皮膚も朱を帯びている。何よりも俺に照準を移動した眼光に迫力がない。彼の不調は、火を見るよりも明らかだった。

「今日は何を言われても帰りませんよ。貴方に言われた任務は完了しました。俺の仕事はもう終わりです」
「じゃあさっさと帰ってよ。俺がこれ以上君に頼むことはないから」
「嫌です」
「ああ分かった、じゃあ頼めばいいんだろう。"帰ってくれ"これが命令だ」
「……残念ですが、」

そうはいきません。俺の台詞に眉根を寄せた彼をじっと見詰める。だってこれは仕事じゃない。俺が俺の意志でやっていることです。プライベートの時間を俺が何の為に使おうと、それは俺の勝手でしょう?顎を少しだけ上げて、目を細めてにっこりと微笑んでみせる。途端に苦虫を噛み潰したような顔で目を逸らした彼は、妙に可愛らしく映った。ああ、つくづく素直じゃないひとだ。


×


「……大体、どうして君はそんな格好をしてるわけ」
「言いませんでしたっけ。俺、最近バイト始めたんですよ」
「運送業のバイト?体力の無さそうな君が」
「光栄なことに、貴方から無茶な仕事をたくさん頼まれているうちに体力がついてきたんですよ。それにしても、臨也さんが把握してないとは思いませんでした」
「…………奈倉、ちょっと黙ってろ」
「すみません、今の貴方は病人でしたね」

聞こえよがしに舌打ちをする彼を横目で見ながら、俺は勝手知ったる他人の台所でビニール袋の中身を広げていた。薬局で買ってきたものは風邪薬とのど飴にマスク、高級ティッシュ(ダブル保湿効果のある動物のパッケージのあれだ)である。もう一つの袋はスーパーのもので、中身は食材だ。冷蔵庫を開けてみれば予想通りに中はほとんど空で、ミネラルウォーターとバター類だけが入っているだけだった。今はネットスーパーという便利なものもあるはずなのに、それを利用する気力も残っていなかったのか。ソファーに寝そべって咳き込んでいる臨也を見遣り、溜息を吐いた。俺が来なかったらどうなっていたのか。考えたくもない。

「臨也さん、そんなところに居ないでください。悪化させる気ですか」
「うるさいなぁ、別にいいだろ」
「よくありません。ほら、喉も痛いんでしょう。きちんと水分を摂って、のど飴を舐めていてください。あとマスクもして」
「お前は俺の母親か」
「矢霧さんも居ないんですから、母親代わりでもなんでもいいですよ」
「それどういう意味だよ……」

ぶつぶつ呟きながらも彼がミネラルウォーターを飲み、のど飴を口に入れたのを確認してから俺は台所へ戻る。壁掛け時計に目を遣ると、時刻は正午を過ぎたばかりだった。あの様子を見るに、今までずっと寝ていたから寝たくても寝付けないのだろう。それにシンクにはマグカップが何個か置いてあるだけだ。食器洗い機の中身は空だし、何かを調理したような形跡もない。昨日の夜も食事を摂っていない可能性もある。俺はスーパーの袋を広げ、傍に掛けてあったエプロンを手に取った。きっと矢霧さんの使っているものだろうが、少しばかり拝借することにしよう。


×


「できましたよ、臨也さん」

ブランケットに包まったまま、眠そうに目を擦る臨也の肩を揺する。軽い睡魔に襲われて船を漕いでいたらしい彼は、俺を見上げて目を瞬かせた。眠くなってきているならこのまま寝かせてやりたいが、食事を摂らなければ回復には繋がらない。それに薬は食後用で、何かを腹に入れないと飲んでも意味を為さない。彼がぼんやりとしている内に台所から盆に載せた小鍋を持ってくる。いつか彼が一人鍋用に買ってきたものだ。茶碗とレンゲを渡して、蓋を開けると白い湯気が立ち上る。その匂いを嗅いで、彼は不思議そうに目を丸くした。

「お粥じゃないの?」
「ええ、お粥って味気なくておいしくないでしょう。食べろって言われても食欲も出ないですし。だから卵雑炊にしてみました」
「へぇ…………ていうか奈倉、料理できたんだ」
「一人暮らしも長いですからね、これぐらいできます」
「ふぅん」
「熱いから気をつけてくださいね」

言われなくても分かってる、と言いたげに睨まれて苦笑する。恐ろしく似合わないと言われてしまったエプロンを脱ぎ、畳んでソファーの上に置く。彼が普段眺めているのは、妙齢の女性のエプロン姿だ。俺のそれなど、彼女と比べてしまえば月とスッポンなのだろう。相変わらずの猫舌らしく、必要以上に息を吹きかけて冷ます様子は微笑ましい。流石にあーん、なんてことをやらせてもらえそうにはないので、俺は彼の食事を見守るだけだ。とろみのついた雑炊を彼が口に含み、静かに咀嚼する様子を眺める。一瞬だけ眉がぴくりと動くが、表情がすこし緩んだのを確認して安堵する。

「どうですか?」
「…………まぁまぁ」
「それはよかった」

時折咳をしながら、それでもゆっくりと彼は雑炊を完食した。食欲なんてないと言っていたのが嘘のようだ。それとも雑炊が好みだったのか、俺の味を気に入ってくれたのか。自然と頬が緩みそうになるが、そんな顔を見咎められたら今度こそ追い出されてしまう。水で薬を飲んでいる彼の前から盆を下げ、俺は適当に買ってきた総菜弁当をレンジで温める。オレンジの光の中で温められるカツ丼を眺めていると、不意に首筋を撫でられて変な声が出た。慌てて振り返ると、臨也が満足そうな笑みを浮かべていた。その距離の近さに心臓が跳ね上がるが、動揺を表に出すわけにはいかない。触れた指が冷たかったのはミネラルウォーターのボトルを持っていたからだろうか。

「奈倉」
「なんですか」
「お前さぁ、ほんとおせっかい」
「……そんなことは今更でしょう」

俺の言葉に、彼の口角が引き上げられる。何を思い出しているのかは分からないが、やけに楽しそうだ。ぶうんと低い音を立て続ける電子レンジに背を向けて、俺は臨也に向き直る。熱のせいで潤んだ瞳が綺麗で、思わず彼の頬に手を伸ばす。滑らかな肌に無骨な指が触れるが、彼はぴくりとも表情を変えなかった。振り払われないので、ゆっくりと指の腹で彼の目尻を拭う。僅かに濡れた感触があった。

「俺はじゅうぶん素直でしょう。それに、抵抗されないのはつまらないって言ってませんでしたっけ」
「そうだねぇ。だけど、嗜虐心をそそるのと生意気は違うよ」
「俺のお節介は生意気ですか」
「うん、そうだよ」

一蹴されてしまうと少々情けない気持ちになる。溜息を吐いた俺を見下ろして臨也はゆるく笑った。でも、と薄紅の唇が開かれる。熱を孕んでいるのか、普段よりも赤く見えるそれが近づく。囁くような声色で、言葉が零された。

「嫌いじゃないよ。奈倉のそういうところ」

耳が言葉を認識したと思えば、掠めるように頬に柔らかいものが触れた。いつもよりも熱い口づけのせいで、俺にも熱が移ってしまうのではないかと錯覚を憶えてしまいそうになる。俺もかなりの重症を煩っているようだ。


(溶かされてしまいそうな、)



end.




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