幸福論



気がつけばそこは闇の中だった。どこまでも続く暗闇の中では視力もまともに機能してはくれない。意識はどこかぼんやりとしていて、なんとなく現実感が薄い。僅かな浮遊感の中にいるような、奇妙な感覚だった。手を伸ばしてみると、自分の手の平が僅かに透けて見える。ふと下を見下ろすと、軍靴の先も闇に溶けている。どうやらここは夢の中らしい。そういえば、前にも似たような夢を見た記憶がある。夢を見ているのに、ここが夢の世界だと自覚できるのだ。

ざあっ、と風の唸りが耳元で聴こえたと思うと俺の視界は黒く塗り潰された。俺の愛する気品に満ち溢れる黒ではなく、どこまでも暗く暗鬱とした色だった。閉じていた目蓋を持ち上げれば、そこは荒野の真っ只中。それもただの荒野ではなかった。荒廃したその地面は赤黒い血液と多くの屍に埋め尽くされている。地面の凹凸に流れ込んだ血は傍に転がる兵士のものらしい。顔をよく見てみれば、綺麗な顔をしたまだ若い青年である。まだ新しい血の匂いに鼻腔は刺激を受ける。夢だというのにやけにリアリティに溢れているものだ。夢を見せている者がいるとすれば、あまり趣味がいいとは言えないだろう。朽ち果てた肉片のあいだから黄ばんだ骨が覗く屍体と、まだ死後間もない死体が入り交じる光景はひどく気分を俺の悪くした。確かに20年前、俺はこんな景色を何度も目にしてきた。だからといってどうして今になってこんな夢を見るのか、皆目検討がつかなかった。この夢は俺に、いったい何を思い出せと言っているのか。


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「――……コンラッド!」

眩い光が入ってきたと思えば、それをやんわりと遮るように黒が覗いた。瞬きを繰り返せばようやく慣れた瞳がその人の姿を捉えた。漆黒の双眸を大きく見開いて、ユーリは一生懸命俺に呼び掛けている。彼の額に汗が滲んでいることに気付いて指で拭うと、ユーリは目を見張った。その肩越しに部屋を見渡すと、ベッドサイドの燭台に炎が灯っているだけで室内は暗い。どうやらまだ夜更けらしい。

「…………すみません、俺、魘されていましたか」
「あ、うん……苦しそうに唸ってたから起こしちゃったんだ。……ごめんな?」
「どうしてあなたが謝るんです。悪い夢から救ってくれたんでしょう」
「救うだなんて大げさな……おれはただ、あんたが苦しそうだったから」
「ありがとうございます、陛下」
「……陛下じゃないだろ」
「あぁ、すみません。ユーリ」

優しく名を呼べば、満足げに目を細めたユーリの髪に触れる。艶やかな漆黒は柔らかく、そして美しい。夢の中の暗闇の色とは違う、高貴な色だ。もっとも、比べること自体が間違いだが。俺が魘されているところなんて初めて見ただろうユーリは、きっと夢の内容が気になっているだろう。だけど心優しいこの人は、俺を気遣ってそんなことを口にはしない。見上げてくる瞳は僅かな好奇心を孕んではいるが、それ以上に俺のことを気遣ってくれている。

「あまり、いい内容の夢ではありませんでした」
「……悪夢って、言ってたもんな」
「そうですね。昔の夢でした。……20年ほど前の、夢です」

彼に余計な気を遣わせないように、しかし疑問には答えられるように告げたつもりだった。しかしユーリは20年前、と聞いた途端に後悔したような表情を浮かべた。あなたが訊いたわけじゃない、俺が勝手に話しただけなのに。小さな手がぎゅっと拳を作るのを見て、少し胸が痛んだ。16年間戦争と無関係の土地で生きてきた、善良な平和主義を掲げる高校生にはきつい内容だろう。繊細な心を持つ彼は、20年前の話を聞くたびにこんな顔をする。俺の口から語られたとき以外でも、ヨザックやヴォルフラムが話した時もこうやって。眉間に皺を寄せ、瞳を伏せて今にも泣きそうに顔を歪める。彼は自分にそんな経験が無く、周囲はその過酷さを知っている事実に弱いのだ。先の戦争を自分の目で見たことがないから、その酷さが分からない。そのことを負い目のように感じている節があるのだろう。そんなことは、俺も皆も望んでいないというのに。

「ユーリ、あまり気にしないでください。あなたが思い詰めることじゃない」
「でも……」
「俺にとって悪い夢ですが、今までも見てきた夢です。それに何も、俺が悪夢ばかりを見ているわけじゃない。楽しい夢だってちゃんと見ます」
「どんな?」
「ええっと、貴方が生まれる前の夢とか貴方が生まれたばかりの頃の夢とか、貴方と野球をする夢とか」
「コンラッド……名付け親馬鹿にもほどがあるぞ」
「引きました?」
「べっつに、引きはしないけどさぁ……こう、もっと他にないわけ?」
「他に、とは?」
「うーん……あんたが小さい頃の夢とか?友達と遊んだ夢とか、ヴォルフが小さい頃の夢とか」
「友達……ヨザックの夢はあまり見ないですね」
「え、そうなの?」
「ユーリはどうなんです?ご友人の夢は見られるんですか?」
「村田の夢?…………そういや見ないなぁ。ていうかおれ、夢は滅多に見ないんだよね」
「それはいいことだ。夢を見ている時は睡眠が浅いんですよ。だから夢を見ないということは、熟睡している証拠なんです」

そうなの?と目を丸くするユーリに頷くと、嬉しげに微笑まれた。そっと頬に触れると、猫のような仕草で彼は擦り寄ってくる。実に愛らしい様子に思わず頬が緩んでしまう。草野球で日焼けしたという肌は小麦に近い色で、しかし彼によく似合っていた。頬から首に指を滑らせると、ユーリは目元を少しだけ赤らめる。それを愛しいとは思うが、独占したいとは思わない。いつでも触れることを許されたこの距離で、彼を見守ることが出来ればそれが何よりの幸せだ。……あぁ、きっと夢の中の赤く染まった同胞たちが今の俺に訴えているのは、昔を忘れるなということなのだろう。今の幸せがあるのは過去の辛い記憶があるからなのだと、それを忘れてはならないと。指先に触れた、ユーリの胸元の魔石は彼の愛する色で輝いている。ライオンズブルー、空よりも濃い青。彼女の色ではないものだ。

「コンラッド、」

大丈夫、分かっている。仲間を失ったことも彼女を失ったことも、辛い過去があったことも俺は憶えている。今までもこれからも、それらを忘れることはない。全てを胸に抱いたまま、今を生きていく。忘却は赦されないけれど、けして辛くはない。気持ちは晴れ渡った空のように清々しい。


ユーリが傍にいる、それだけで俺は


end.




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