Vas-y voir quelque chose dans ca brouillard.

※ひな祭り


視界の悪いあぜ道を歩きながら足立は溜息を吐いた。霧で覆われた景色は、先ほど書類ミスで堂島に叱り飛ばされた足立の気分を重いものにした。あんな初歩的なミスをしたのは久しぶりだった。集中力が欠如していたのだろうか。だとすればきっと、全てこの霧のせいだ。八十稲羽の人間の多くが今や、この霧は人体に悪影響を及ぼす毒だと信じ込んでいる。実に滑稽なことだ。足立は口の端が吊り上がっていくのを抑えられずに喉を鳴らした。どうせこんな深い霧だ、笑っていようが誰にも見えはしない。"自称特別捜査隊"、高校生たちが豪語していたその探偵ごっこも結局は足立の元まで届くことはなかった。くく、と笑いながら足立は思う。これで良かった。世界は足立の思うがままになったのだ。そう、じきに八十稲羽は霧に飲み込まれ――――

「足立さん、」

落ち着いた声に名を呼ばれ、気を抜いていた足立は肩を揺らした。そう近い距離にいるわけではないらしい。声は少し離れた場所から聞こえた。足立は笑っていた表情を崩して背後を振り返る。濃い霧の向こうにうっすらと黒い人影が見えた。霧には表情が見えないという利点があると思っていたが、それとは別に気配に気付きにくくなるという欠点があるらしい。舌打ちしたくなる気持ちを抑えながら、足立はあくまでにこやかに応えた。

「やぁ瀬田くん、奇遇だね。学校の帰りかい?」
「ええ、足立さん今日は早いんですね。それにしても、霧がひどい」
「あはは、そうだね。こんなに濃いと顔も見えないねぇ」
「……あぁ、ようやく足立さんが見えた」

視認できる距離まで近づいてきた彼は、グレーの瞳を細めて微笑んだ。鋭く、冷たい印象を見せる瞳がこんな風に笑うのを見るのは今でも慣れない。なんとなく、落ち着かない気持ちになるのは何故だろうか。頭に浮かんだ邪念を振り払うように微笑むと、足立は彼が手にしているジュネスのビニール袋に目を落とした。買い物してきたの?と聞くと、彼は頷いて袋の中身をこちらに見せてきた。しいたけに鶏肉、スモークサーモンに柚子、卵やアスパラガスなど中身は様々だ。顔を上げると、彼は柔和に微笑んだままで尋ねてきた。

「これで何を作るか分かります?」
「えぇっ、そんなの僕には分からないよ」
「足立さん、料理しないんでしたっけ」
「で、出来ないわけじゃないよ!ただこう……忙しくて……」
「刑事さんですもんね。多忙なのは当たり前だ」
「そうそう!」
「今日もコンビニ弁当ですか?」
「いーや!今日はジュネスの総菜だよ」
「うーん、それもあまり変わらない気が」
「変わるよ!」
「……さて、そんな足立さんに朗報があるんですが」

何?と首を傾げた僕に彼は尚のこと笑みを深くした。まるで子どものような表情で僕をじいっと見つめて、その薄い唇が開かれた。

「今日はうちで食べていきませんか?」


×


「……なんでまた、僕を呼んだりしたんだい?」
「なんとなく、です」

キッチンに立って青いチェックのエプロンを装備した彼はそう笑った。きっとそのエプロンはジュネスで買ってきたのだろうとどうでもいいことを考えながら、僕はひどく曖昧に返事をした。彼とは長いあいだ直接的に会っていなかった。会っていなかった理由については、特にはない。会う理由がなかった、それだけだ。

「まだ菜々子は退院できないですけど、今日は女の子の日ですからね。ちらし寿司を作るんです」
「あぁそっか、今日は雛祭りだったね」
「そうです。だから今日は気合いを入れますよ」
「瀬田くんはじゅうぶん上手いだろ?一体どんなちらし寿司を作るつもり?」
「――――すこし、特別なものです」

料理についての知識はからっきしの僕は、手伝うにも手伝えない。何もすることがないので見ていてもいいかと聞くと、彼は嬉しそうに頷いた。よくよく考えれば、堂島さんと菜々子ちゃんが入院しているあいだは彼は堂島家に一人きりで、堂島さんが退院してきたのも最近になってからだ。僕は病院との電話連絡ぐらいでしか彼の声を聞くことはなかったけれど、その時の彼の声は何も変わっていないように聞こえた。だけれどそれは彼が精神力で繋ぎ止めていただけだったのだろう。今日の彼がやけに幼く映るのは気のせいではない。まだ高校生の彼はきっと、心の奥底で寂しかったのだ。

「……瀬田くん、」
「え?」
「――――いや、なんでもないよ」
「……そうですか? 俺、頑張るんで見ててくださいね」


×


つくづく思う、この子は要領がいいと。てきぱきと迷うことなく指は材料を掴み、的確に調理をしていく。米を洗ってざるに上げ、水気をきる。炊飯器の内釜に入れて微調整をしながら水加減して炊いていく。酢、砂糖、塩は耐熱ボウルに合わせて電子レンジに30秒ほどかける。それをよく混ぜてゆずの絞り汁を加え、合わせ酢をつくる。炊き上がったご飯をバットに移し、合わせ酢を回しかけてサックリと混ぜていく。ご飯が熱いうちにしゃもじで全体に広げ、上下を返すように混ぜる手つきはとても高校生男子のそれではない。完全に主婦……いや主夫である。そして涼しい顔をしながら僕にうちわを渡して、これであおいでくださいと笑った。それぐらいしか出来そうにないので、僕も大人しく独特の甘酸っぱい香りを漂わせるご飯をあおぐ。香りに嗅覚を刺激され、腹の虫が鳴ってしまった。この音が彼に聞こえていないのが幸いだったか。

僕がそうやっているあいだに、彼は次の作業に移っていた。鍋に油をひかずに鶏ひき肉を入れ、中火にかけて、菜ばしを4本使って混ぜながら炒る。その素早い手つきは鮮やかとしか言いようがない。肉の色が変わったらしいたけを加え、しんなりしてきたら、酒、砂糖、しょうゆを順に加えて汁気がなくなるまで炒る。これはしいたけそぼろらしい。普通にご飯に乗せてもいけるんですよ、と彼は言ったが確かにそのままでも美味そうだ。それを冷ましているあいだにフライパンにサラダ油少々を引いて弱火で熱し、溶き卵の1/2を流し入れる。表面が乾いたら裏返し、サッと焼いて取り出す。残りも同様に焼いて、冷めたら半分に切ってクルクルと丸め、端から細く切っていく。錦糸卵は名前の通り、錦糸のように細く綺麗に出来上がった。……僕には一生出来そうにない作業だ。

絹さやはヘタと筋を取り、柔らかめにゆでて冷水にとり、水気をきって斜め細切りにする。アスパラガスは色よくゆで、先端4cmは四つ割りに、残りは斜め薄切りにする。そして、あらかじめ空の牛乳パックで作っていたらしい型を取り出した。どうやら今回はケーキのような押し寿司にするようだ。"少し特別なもの"というのはこういう意味だったのか。その内側にラップを敷いてすし飯の1/3を敷き、しいたけそぼろを広げて平らにならす。その上に残りのすし飯の半量を乗せて広げていく。絹さやと焼きのりを散らし、残りのすし飯を乗せる。錦糸卵を上面に広げ、ラップの端で覆って上から軽く押さえて馴染ませる。軽く重しをのせ、彼はこちらを振り返った。

「このまま30分間ほど置いておきます。足立さん、ありがとうございました」
「僕はあおいでただけだよ……?」
「いえ、助かりましたよ」
「それにしてもきみ、本当に器用というか細かいというか……上手いってレベルじゃないよねぇ。元から料理は得意だったって言ってたけど、こっちに来てから更に上達したね」
「ありがとうございます。でも料理は趣味みたいなものなので」
「いやいや、現役高校生で料理が趣味ってかなりのステータスだよ?もっと自信持っていいって」
「そう、ですかね……」
「うん。この僕が保証するよ!」
「ははっ、それは心強いですね」

久しぶりの彼との会話は僕の心をひどく穏やかにさせた。今までいたちごっこを続けていた敵なのに、なんておかしなことだろうか。滑稽なのは僕の方なのかもしれない。それでも柔らかに微笑みながら楽しげに他愛もない話を続ける彼を見て、僕の心は以前のように波立つことはなかった。どうしてなのか、その原因はまったくもって分からないけれど。

「今日は来てくれて、嬉しかったです」

まっすぐに見つめられてそんなことを言われて、僕は不思議と嫌ではなかった。むしろその言葉を心地好く受け止めている自分が、たしかに存在していた。以前までなら拒絶していたはずのもの、異質なものが僕のなかに染み入ってくる。ゆるやかに、じわりじわりと侵食するようなあたたかい感情。困惑さえも忘れたように僕はそれを受け入れた。


(すべてを飲み込むのは彼の××でした)



end.



title by JUKE BOX.




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