The kiss mark which I pocketed



「リーダー、失礼します」

コンコン、とノックをしてヤスタカは扉の向こうにいるであろう主人へ呼び掛ける。返事が返ってこないのはいつものことで、たっぷり10秒待ってからゆっくりとドアノブを捻った。いつものことである。

「リーダー」
「………………」

暖かな執務室の奥で、自分のデスクに向かって黙々と書類を片付けているのがグリーンだった。部屋にこもって数時間経つというのにグリーンは朝から一度も部屋の外に出ることもなく仕事を続けていた。アキエが呆れて様子を見てきてと言ったのも無理はない。この状態のグリーンは少しのことでは他人が来ても気が付かないのだ。その証拠にデスクの端に置かれたマグカップの中身はすっかり冷えてしまっていて、ヤスタカは僅かに苦笑した。


×


ジムで全く来る気配の無い挑戦者を待ち続けることに飽きたヤスタカが、アキエに声を掛けられたのはつい先程のことだった。

「ヤスタカ、ちょっと」
「はい?」
「……いいから、こっち来て」

眉根を寄せて端正な顔を顰めたアキエに手招きされ、ヤスタカは首を傾げた。昨日の清掃当番は俺だったから何かやり残しでも見つけられたのだろうか、と見当違いなことをぼんやりと考えながら。すっかり慣れた移動床を乗りこなし、スタッフルームに着いてアキエが振り返った。いつもの凛々しい顔立ちはどこへやら、困り顔を浮かべている。後ろ手で扉を閉めながらヤスタカが何があったのかと尋ねるとアキエは一言、リーダーの名を口にした。

「…………えっと、リーダーがどうかした?」
「だ、か、ら!リーダーが朝からずーーーっと執務室に籠りっぱなしで出てこないの!さっき昼食のサンドイッチ持って行ったんだけど、声かけても空返事でこっちの声は全然届いてないし、朝に持って行ったコーヒーは全く手がつけられないまま放置されてるし、仕方なく新しく淹れ直したけどやっぱり空返事!!」
「あぁ…………成る程……」
「確かに研究所からの仕事があるから今週は執務室に居るとは言ってたけど、今日でもう五日目なのよ?昨日までは昼食は持って行ったらちゃんと食べてたし、コーヒーだって飲んでたのに……」
「あの人、集中すると周りが見えなくなるからなぁ……そういう所はやっぱり博士似というか……」
「そこが玉に瑕なのよ」
「うわぁアキエさん、ずばっと言うねぇ」
「だって……!」

唇を噛んできっと見上げてきたアキエの、その目が僅かに潤んでいてヤスタカはぎょっとした。アキエを泣かせでもしたら皆に何と言われるか。いや、正しくは根本的な原因はグリーンにあるのだが。

「わ、分かったよアキエ、俺が言ってくればいいんだろ?」
「――――……そうよ」

ふい、と目を逸らして頷いたアキエは複雑そうな面持ちのままだった。彼女はコーヒーを淹れるのがとても上手く、紅茶好きな姉の影響もあってかコーヒーの味には口煩いグリーンも褒めるほどの腕前だ。アキエが淹れた熱々のコーヒーを一口飲んで、一言「美味いよ」と微笑むグリーンの笑顔がアキエにとっての幸せなのだろう。その時のアキエの嬉しそうな笑顔は誇らしさに溢れている。そのことはヤスタカにもよく分かっていた。

「なぁアキエ、その代わりに上手く行ったら俺にもコーヒー淹れてくれる?」

だからヤスタカは俯いたアキエの手を取ってそう問い掛けた。彼女の誇りを傷付けるわけにはいかなかった。暫くの間アキエは驚いたように目を瞬かせていたが、吹き出すように笑っていいわよ、と返した。ヤスタカの癖に生意気なこと言うのね、とすっかりいつもの調子に戻ったアキエに微笑み、約束を取り付けたヤスタカはスタッフルームを後にした。主の執務室に向かうために。


×


とは言ったものの、どうしたものか。全くこちらに気付きもしないグリーンを見詰め、ヤスタカは立ち尽くす。部屋の中は至って綺麗で、しっかりと整頓されている。デスクの上には大量の書類やらファイルが溢れ返っているのに対して雲泥の差である。ヤスタカが溜息を吐いた時、足元に何か柔らかなものが擦り寄ってくる感覚があった。驚いて見下ろすと茶色の毛玉がヤスタカの足に擦り寄っている。グリーンのイーブイだ。主人が構ってくれなくて寂しいのだろう、きゅーんと鳴いた声はいつもよりも弱々しい。屈んでイーブイを抱き上げ、ソファーに腰を下ろすとイーブイは甘えるようにヤスタカの指を舐める。その擽ったさにヤスタカが思わず笑うと、イーブイは楽しそうにきゅうっと鳴いた。暖かな身体を抱き、そっと撫でてなりながら当の本人の様子を窺うが、さっきと何ら変わった様子は無い。リーグ時期でもなく、挑戦者の数も少ない時期ではあるが、やはりジムリーダーが籠りきりでは心配もする。まだ甘え足りない様子のイーブイをそっと降ろして立ち上がると、ヤスタカはグリーンのデスクに向かう。育ちの良さが表れるのか、綺麗な姿勢で黙々と書類に何やら文章を綴るグリーンの瞳は真剣だった。バトルの時の熱く、明朗でたまに軽薄な雰囲気とは一線を画す空気を漂わせたグリーンは、ヤスタカも声を掛けるのを躊躇うほどだった。しかしここで諦めてはアキエに顔向けが出来ない。何よりもこの人の為にならない。小さく咳払いをして、ヤスタカは声を掛けた。

「グリーンさん、」

意図せずとも、甘やかな声になってしまった。囁くように耳元で呼ぶと、グリーンはぴたりとペンを持つ手を止めた。そしてゆっくりと顔を上げる。

「――――ヤスタカ?」
「えぇ。貴方の部下、小手調べのヤスタカですよ」

ヤスタカがおどけるように笑ってみせるとグリーンは少し驚いたような表情を和らげてあぁそうか、と呟いた。ペンをペン立てに戻し、指を鳴らしながら肩の力を抜くようにギィ、と椅子を引く。

「またオレ、声掛けても返事しなかった?」
「正しくは空返事ならギリギリしていた、ですね。アキエがコーヒー飲んでくれないって拗ねてましたよ」
「あー…………悪いことしたな……」
「そう思うならその癖、直してください」
「……仕方ねーじゃん」

そうは言いながらも、マグカップの中のすっかり冷めたコーヒーを見詰めるグリーンは申し訳無さそうに眉根を下げていた。その様子にこの人は本当に部下思いだなぁと思わず笑う。グリーンにぎろりと見上げられて、慌ててすみませんと謝るが、誠意が感じられないとばっさり切り捨てられてしまった。

「それにイーブイも。出してあげたのはいいですけど構ってもらえなくて寂しそうでしたよ。普段はそんなことしないのに、俺に擦り寄ってきましたし。……今はすっかり寝ちゃってますけど」
「……イーブイも、拗ねたかな」
「さぁ。今度はちゃんと構ってあげてくださいね」

ソファーで丸まって寝息を立てるイーブイを眺めながら笑うと、不満そうな瞳と目が合う。伸びた前髪の間から覗くグリーンの瞳は綺麗な琥珀色だ。

「…………なんでオレ、お前に説教されてんの」
「ふふ、自業自得じゃないんですか」
「うっせ、生意気なんだよ」
「アキエにもさっき言われましたよ、生意気だって」
「だってお前、かわいくねーもん」

背伸びしながら立ち上がったグリーンの手がヤスタカの頬に触れる。ペンの持ちすぎで豆が出来てしまっているのがすぐに分かった。綺麗な指だったのに勿体無い、と呟けばなんだよそれ、と肩を揺らしてグリーンは笑う。今度はヤスタカが手を伸ばすと、グリーンは静かに目を伏せて身体を寄せてきた。見た目よりも柔らかな髪をそっと撫でて頬から顎、首筋のラインを確かめるように触れる。僅かに熱を持った首の後ろからヤスタカの掌にじわりと熱が伝わってきた。甘い息がグリーンの唇から漏れるのを感じて、ヤスタカは静かにその首筋の下辺りに顔を寄せる。柔らかな肌に強く吸い付くと、白い肌に花びらのように赤い痕跡が残った。指でそこをなぞって顔を上げると、頬を紅潮させたグリーンが苦々しい表情でこちらを見ている。

「……だから、そういうとこがかわいくねーの。さっきの、やけに甘ったるい声も」
「どうせ後ろ髪で見えませんよ」
「そういう問題じゃ、ねぇだろ……」

本当に生意気だと漏らしたグリーンに不満ですか、と尋ねれば数拍後に不満じゃねぇけど、と言いにくそうに返ってきた。その答えに満足したヤスタカは微笑んですっと身を引いた。きょとん、と見上げてくるグリーンは14歳の年相応の表情をしている。非常に可愛らしい。

「さぁ、コーヒー暖め直しますからサンドイッチもちゃんと食べて。あとイーブイの相手もしてやってください」
「お、おう……」
「仕事は無理をしないで区切りを決めて休憩を取ってください。誰かが来た時には空返事じゃなくて会話をすること」
「…………おう……」
「コーヒー暖め終わったら俺は戻りますけど、何かありますか?」
「――――……別に……」

グリーンがじわじわと顔を赤くして、もごもごと喋る様子にヤスタカは内心笑みを隠せない。少しやりすぎたかもしれないが、これもアキエに頼まれた範疇だと半ば無理矢理に思い直してマグカップを持ってレンジへ向かう。背後でグリーンが悔しそうな表情をしていることは実に想像に容易かった。レンジの中でくるくると回るマグカップを眺めながら、ヤスタカも自分の心が暖かくなるのを感じた。

end.




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