It is not escaped anymore.



視界の端に捉えた、深紅の色にレギュラスは思わず足を止めた。積雪に覆われた風景の中に一瞬だけ映り込んだそれは、しかしレギュラスの目を鮮やかに奪う。追った先には漆黒の髪があって、思わず小さく声が零れてしまった。ジェームズ・ポッターと肩を並べ、談笑しながら歩いているのは紛れもなくシリウスであった。兄さん、と思わず呟きそうになって静かに飲み込もうとする。しかしそれは鉛のように重く、上手く嚥下できなかった。ざらついた不快感だけが喉の奥に貼り付いて、ひどく胸が苦しい。隣を歩いていたバーティが立ち止まったレギュラスを振り返り、声を掛ける。心配そうなその声にレギュラスは僅かに俯き、それから何もなかったように柔らかく微笑んだ。いや、なんでもないよ。まだ訝しむような表情のバーティの手を取り、レギュラスは雪を踏み締めるように歩き出す。ブーツがきゅ、きゅ、とくぐもった音を立てるたび、レギュラスの胸も締め付けられる。あの真っ赤な色彩が、レギュラスを兄から引き離さない。まるで激しく主張するように鮮やかな、あか。それはレギュラスの記憶の中にも確かに存在していた。そう、シリウスが赤いマフラーを身につけるようになった日のことだ。緩やかに脳裏に蘇るのは、まだ兄弟が共に遊んでいた――――幼い頃の追憶である。


×


「ははうえ、もうすぐ兄さんとの約束の時間です」
「えぇ、そうねレギュラス」
「……ははうえ、聞いていますか……?」
「勿論、聞いていますとも……。あぁ、貴方の髪は本当に綺麗ね。私の若い頃もこんな風に滑らかでしたわ」
「…………ははうえ……」

幼いレギュラスは小さな身体を母に抱き上げられ、膝の上で髪を弄られていた。ヴァルブルガはレギュラスを女の子のように可愛がる癖があり、髪を弄ることは勿論、やたらフリルのついた洋服やドレスコードを買ってきてはレギュラスを着せ替え人形のようにしては楽しんでいた。レギュラスはフリルは好きではなかったし、あまり華美なものも好きではない。それでも母のことは好いていたし、もし拒んだりでもすれば彼女が悲しむことは分かっていた。幼くも聡明なレギュラスはそんなことはしなかったので、母の可愛がりかたは日に日にエスカレートしている。それでもシリウスとの約束の時間は近づいている。母も好きだが兄のことも好きなレギュラスは、しかし抜け出すことが出来ずにおろおろとするばかりだ。その時、重い扉を押し開けて小さな影が部屋に飛び込んできた。

「レギュラス!なにやってんだよ!」
「にいさん……」

シリウスはレギュラスの姿を見て呆れたように眉を下げる。相変わらず、母が用意した服を着ることを拒むシリウスは叔父から貰った簡素なシャツとズボンを穿いていた。靴は履き古してぼろぼろになっている。髪も適当に撫で付けただけで、寝癖がぴんぴんと跳ねたままだ。そんなシリウスの姿を見て母は悲鳴にも似た声を上げた。レギュラスをようやく膝から降ろすと、あっという間にシリウスを捕まえる。慌てて抵抗するシリウスの努力も虚しく、両手にブラシとヘアオイルを持った母は険しい顔でブラッシングを始めた。やめろとかはなせとか喚きたてる兄にレギュラスは静かに息を吐く。ふと姿見を覗いてみると、レギュラスは一段とフリルの多いブラウスに上質な生地のハーフバンツ、ぴかぴかに磨かれたブーツを履いていた。しっかりと弄られた髪はつやつやのさらさらだ。どこから見ても完璧な貴族のお坊ちゃまという姿である。一方、兄は整った顔立ちすら台無しのマグルとも似つかない格好である。美しさにどんな努力も厭わない母が、そんな姿を見逃すわけがなかったのだ。焼き上がったマフィンをバスケットに詰めて運んできたクリーチャーと並んで、奮闘する兄を眺めながらレギュラスは本日何回目とも分からない溜息を吐いた。


×


母の手によってシリウスの髪はさらさらになり、シャツとズボンは新品のものを着せられ、ぼろぼろのブーツも魔法によって直されて新品同然に磨き上げられた。やっとのことで逃げ出したシリウスは、再び捕まりそうになった弟の手を引いて部屋を飛び出した。レギュラスは食べかけのマフィンを慌てて飲み込んだものだから、危うく喉に詰まらせるところだった。

「最悪だ…………」
「でも、にいさんが悪いんだよ」
「うるせー。おまえはなんだよ、母上の人形か?」
「ちがうよにいさん。ぼくは、ははうえが好きなだけだもの」
「……あっそ」
「にいさんは、ははうえが嫌いなの?」
「――――、べつに」

見上げてくる弟から言いにくそうに目を逸らし、もごもごとシリウスは呟く。ぴかぴかになったブーツの爪先を見詰めて、シリウスはどうやら拗ねているようだった。レギュラスはそう、と頷くと何も言わずに兄の手を握り返した。あたたかな手の平から伝わる体温は心地好く、驚いたような表情でレギュラスを見たシリウスも僅かに表情を緩めた。すこしだけ自分よりも大きな手。少しだけ自分よりも小さな手。言葉にはしなくとも、兄弟はお互いのことをよく分かっていたし、なにを思っているのかもよく分かっていた。だから伝わる体温はひどく優しいもので、大切な証だった。

「にいさん、今日はなにをして遊ぶの?」
「なんだと思う?」
「……ブランコ遊び……?」
「それは昨日やっただろ。まぁ、まだレギュには難しいか」
「……教えてよ、にいさん」

すこしだけ拗ねたように頬を膨らませたレギュラスに気を良くして、シリウスは嬉しそうに笑った。いいか、聞いて驚くなよ?と言われてレギュラスは神妙な顔で頷く。するとシリウスはいきなり弟の手を掴んだまま走り出した。バランスを崩しそうになりながらも、レギュラスは一生懸命ついていく。回廊を走り抜け、いくつもの部屋の前を過ぎて着いた場所は、たくさんの薔薇が咲き誇る中庭だった。緑の香りと薔薇の甘い匂いで溢れる中庭に、いったい何があるのだろうとレギュラスは首を傾げる。そんなレギュラスに何故か得意げなシリウスは、垣根の奥に何かを見つけてぱぁっと顔を輝かせた。

「アルファードおじさん!」

レギュラスの手を離してシリウスは人影に駆け寄ると、そのまま大きな身体に抱き着いた。そんな甥の小さな身体をしっかりと抱きとめると、その男――――アルファードは快活に笑った。肩よりも長く伸ばした髪を一つに結び、無精髭を生やした叔父は去年会ったときよりも渋さを増していた。灰色のトレンチコートはマグル製のようで、高級感はなくともとても温かそうに見えた。首には見るも鮮やかな深紅のマフラーをしている。アルファードはシリウスの頭を撫でながら、レギュラスに微笑むと手を差し出した。レギュラスがおずおずと歩み寄ってその手を握り返すと、叔父は嬉しげに微笑む。

「シリウス、レギュラス、久しいな」
「やっと来てくれた!おれ、ずっと会いたかったんだぜ!」
「俺もだよ、シリウス。悪いな、最近は忙しくて」
「でも来てくれたから、いい!」
「そうかそうか……レギュラス、元気だったか?」
「あ、はい……お久しぶり、です…」
「ははッ、そんなに固くなるな。ほら、お前の兄さんを見てみろ。これぐらい無遠慮でもいいんだぞ?」

ごつごつした大きな手にわしわしと撫でられて、母がセットしたレギュラスの髪はぐちゃぐちゃになる。それでもレギュラスは滅多に会うことの出来ない叔父のことはシリウスと同じくらいに好きだった。恥ずかしさに小さく頷くことしか出来なくて、それでもはにかむように微笑む。従姉のアンドロメダと同じように、アルファードとはほとんど自由に会うことが出来ない。幼い兄弟にはぼんやりとしか分からないが、きっと純血主義ではないからだろうとは気付いていた。それでもシリウスとレギュラスは縛られない考えを持っている従姉も叔父も好きだったし、こうやってこっそり会えることはとても嬉しかった。

「ほらシリウス、そろそろ離してくれないか」
「いーやーだー」
「困ったな……せっかくお土産を持ってきたのに……」
「えっ、おみやげ!?」
「まったく、現金な奴だ」

ぱっと離れたシリウスに苦笑しながら叔父は手に持っていた大きな革製のトランクを降ろした。使い込まれた焦げ茶のトランクからは、いつも兄弟が見たこともないようなお菓子や道具、金貨が出てくる。今度は何が出てくるのだろうと二人は期待に目を輝かせて叔父がトランクの鍵を開けるのを見ていた。カチャリと音がして解錠され、重い口を開いたトランクの中で真っ先に目に飛び込んできたのは、叔父が身につけているものと同じ、深紅のマフラーだった。透明の綺麗な袋に包まれたそれを目にした途端、シリウスは声を上げて喜んだ。レギュラスも目をきらきらとさせて真っ赤なマフラーを見詰める。叔父のものは手編みらしく分厚かったが、このマフラーは上質なカシミアらしい。きめ細やかで光沢があり、見るからに高そうなそれに二人の目は釘付けだった。

「どうだ、気に入ったか?」
「うん!!おじさん、前におれがおじさんのマフラー欲しいって言ってたの、覚えててくれたんだな!」
「これ、すごくあったかそう……」
「生憎、俺のマフラーはあげられないが……これで勘弁してくれるか?」
「これがいい!」
「ぼくも、これがいいです」
「はは、気に入ってくれたなら嬉しいよ」

叔父はすぐに包装を剥がし、二人の首にマフラーを巻いてくれた。滑らかなカシミアが頬に触れるととても気持ち良く、思わず表情も綻ぶ。それを見た叔父は兄弟を抱き寄せ、身体を揺らして大きな声で笑った。そんな叔父につられるように、シリウスとレギュラスも顔を見合わせて笑った。


×


その時のシリウスの笑顔は、今でも鮮明にしっかりとレギュラスの目に焼き付いていて、その日の夜に初雪が降ったこともはっきりと覚えていた。そしてアルファードが、それきりブラック家の敷居を跨ぐことを禁じられたことも。兄が消えた先を肩越しに振り返り、レギュラスは静かに真っ白な息を吐き出す。今レギュラスが首に巻くマフラーは叔父や兄と同じ赤ではない。純血主義の証、スリザリンの緑だ。あの幼く、何も知らなかった頃から随分と時が流れた。家系に縛られ、組み分け帽子に分たれ、兄弟は大きく引き離された。もう同じものを見て共に笑うことも、悲しむことも、泣くことも出来ない。それをどんなに悲しもうが嘆こうが、きっとレギュラスの想いは叶わない。あまりにも残酷な運命は既に歯車を回し始めている。レギュラス自身、そのことには気付いていた。闇の勢力が力を増している今、もう躊躇することも逃げ出すことも許されない状況にあることは痛いほどに。だからいくら自分が傷付こうとも、苦しもうとも、後戻りなどはしないととうに決めていた。胸の痛みなど忘れなければいけない。そうしなければ自分が壊れてしまう。そうやって言い聞かせていなければ、レギュラスは大切なものを守れない。家族を、クリーチャーを、友を、そして――――愛するひとを。

「……レギュラス、」
「バーティ、気にしないで。……何でもないんだ」

友人の案じる声に痛むこの感覚も、じきに忘れてしまう。今が過ぎればきっと何も感じることはなくなる。だから何も恐れる必要などは無い。感情を捨て、追憶を捨て、己の身を犠牲にしてでも守り抜くと決めたものがある。その目的の為ならば何も厭わない。喩え、あの日の思い出さえも忘却してしまうことになろうとも、それが定めならば甘んじて受け入れるほか無いのだ。振り返ることはこれで最後にしなければならない。全てを、これで終わりにするのだ。


「――――さぁ行こう、バーティ」


(ぼくにはこうするしかなかったのです)



end.




ホーム / 目次 / ページトップ

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -