夏、振り切れる理性と情欲

※R15


その日はいつもと変わらぬ突き抜けるような晴天の日で、じりじりと照らしてくる太陽は偉そうな顔をして空に居座っていた。暑苦しいジャケットを脱いでもシャツの下を流れる汗は止まらず、それどころか汗のせいで肌に貼り付いてくる感覚がひどく気持ち悪かった。照りつける日差し以上に、地面のアスファルトからの照り返しがきつくて思わず溜息を吐く。むあむあと立ち上ってくる熱気は堪え難く、喉はカラカラで今にも干涸びてしまいそうだ。これでまだ7月の中旬だと言うのだから信じられない。こんな田舎の町でもこれなのだ、一体都会はどうなっているのだろうと考えただけで嫌になった。地球温暖化ってやつはこんなにも恐ろしいものなのかと首を竦める。僕が子供の頃はこんな暑さを感じたことはなかったのに。

「あーもう……この暑さの中で部下に雑用押し付けるとか……堂島さん人遣い荒すぎ………」

届くはずの無い文句を垂れ流しながらのろのろと歩きながら、上司に押し付けられた雑用――――甥っ子くんに伝言を伝える、忘れ物の書類を持ってくる、堂島さんの着替えを持ってくるの三点――を思い出して気分が落ち込んでいく。自分が手が離せないからといって、個人的な用件を部下に命令するのはどうなのかと思う。大体僕にだって終わらせなければいけない仕事はあったし、別の部署から頼まれていた案件もあったというのに。とても断れるような雰囲気ではなかったせいで半ば追い出されるように署を出てきたわけだが、きっと今夜は帰れないだろう。身体の怠さに比例するように重くなっていく気分を無理矢理どうにか向上させるために、僕は雑用ついでに堂島さん家で涼んでいくことに決めた。どうせまだこの時間だ、四時を過ぎなければ菜々子ちゃんは帰ってこないだろうし、甥っ子くんは部活や用事が無い限りは五時以降にならないと帰らないはずだ。腕時計に目を落とすと、時刻はまだ三時半。30分は休めるだろうと思い直して、僕は少しだけ歩を早めた。


×


「あれ……菜々子ちゃん?」

ようやく堂島家が見えてきたと思えば、見慣れた小さな女の子の姿が視界に飛び込んできた。玄関から飛び出してきた少女は、遠くからでも僕の声に気がついて振り返る。頭に被った、ピンクの可愛らしいリボンが付いた大きな麦わら帽子を押さえてこちらを見たのは、間違いなく菜々子ちゃんだった。僕を視認した途端に花が咲くような笑顔になって駆け寄ってきた菜々子ちゃんは、この間沖奈で堂島さんに買ってもらったという真っ赤なポシェットを肩から掛けていた。

「足立さん!こんにちは!」
「やぁ菜々子ちゃん、こんにちは。……今日はやけに早いんだね?」
「今日ははやがえりだったの!」
「あぁそうなんだ……羨ましいねぇ」
「足立さんは、どうしたの?」
「あー……ちょっと堂島さんにざつよ……えーと、用事頼まれちゃって、ね」
「そうなんだ!菜々子はね、いまからあそびにいくの!」
「そっかそっか、気をつけるんだよ?」
「はーい!いってきます!」
「いってらっしゃい」

風に飛ばされてしまわないように麦わら帽子をしっかりと押さえながら菜々子ちゃんは走っていく。その無邪気な背中が角を曲がって消えていくのを見守って、少しだけ荒んでいた心が宥まっていく気がした。

初めの頃は純真無垢という言葉がぴったりな彼女の性格が苦手だった。しかし何度も堂島家にお邪魔している内に、彼女が幼いながらも自分の意見をしっかりと持った芯の強い子だと気付いてからは彼女のことを見直した。この子は無神経で他人の領域にずかずかと入り込んでくるような子供ではなく、非常に聡い子供なのだと気が付いたからだ。そして僕は胸の何処か底で、そんな彼女の聡明さを羨望している。ほんの少し、羨ましいのだ。


×


「…………おじゃましまーっす」

菜々子ちゃんのことから意識を背け、引き戸に手を掛けて玄関に入る。久しぶりに訪れた堂島家はいつもと変わらない雰囲気だったが、一つだけ何かが違うとすれば人の気配が無いことだろうか。無人の状態のこの家に入るのは初めてで、ほんの少しだけ喪失感に似たものを感じた。きっと、いつも賑やかな堂島家に慣れすぎていたのだろう。寂しい、などとは感じてはいない。しかし本来自分が馴染んでしまってはいけない場所に落ち着いてしまっていたという現実に気付かされて途方も無い脱力感に見舞われた。あぁ、いつの間に僕は絆されてしまっていたのだろう。堂島さんや菜々子ちゃんに気を許してしまった時点で気付くべきであったのに。

襲い来る感情の波に緩く首を振ってフィールドブーツを脱ぎ捨て、揃えもせずに上がり込む。堂島さんに言われた通りに棚から書類の入ったファイルを見つけ出し、着替えの入ったバッグを和室から取ってくる。そうしてからようやく、喉が渇いていたことを思い出してソファーに座る前に冷蔵庫へ向かった。扉を開けるとひやりとした熱気が心地好く、数秒間だけ頭を突っ込むようにして冷気を浴びる。それから麦茶の入った2Lペットボトルを取り出し、食器棚から手頃なグラスを拝借してなみなみと注ぐ。氷を入れるのを忘れていたが、液体は十分に冷えていた。冷たいグラスを掴んで一気に麦茶を飲み干すと、熱気を孕んでいた身体が急速に冷えていくようだった。一杯では足りず、もう一杯飲んでからグラスを流しで適当に洗って乾燥機に入れる。これぐらいで咎められることはないだろう。

重い息を吐き出してソファーに半ば倒れるように座り込んだ。流石に勝手に冷房をつけるわけにはいかないので窓を開け放っただけで、汗は止まったもののそれでもやはり暑い。窓の外は、真っ青な空と真っ白な積雲の対比が目に痛いぐらいだった。あと一時間はこのまま動きたくないと思いながら目を閉じた時だった。二階からがたりと小さな物音が聴こえたのは。反射的に息を詰め、耳を澄ましてみるがそれ以降は何の音も聴こえない。そういえば――よくよく考えてみれば、確か八十稲羽高校は試験期間だった。先日、商店街を通りかかった時に小西尚紀と巽完二がそんな会話をしていたような気がする。どうせまだ彼は帰らないだろうと思って、書き置きで伝言を済ましてしまおうと思っていたので盲点だった。というか、今の今まで何故気が付かなかったのだろう。玄関には確かに、端に寄せて綺麗に揃えられたローファーがあったのに。

「なんだ、居るのか」

そう小さく呟いた所で思った、彼は何をしているのだろうか。試験期間ということは午前中で終わって、菜々子ちゃんと同じぐらいの時間には帰宅していたはずだ。始業式や終業式が早帰りなように、学生ならば試験期間であっても余程真面目ではない限り午後から遊びに行ったりするものではないのだろうか。もし真面目ならば、友人同士で集まって勉強会のようなものをするだろう。そう、いつものようにジュネスや商店街に集まっていてもおかしくはないだろう。と言うより、いつもそんな姿を見掛けながら恨めしい思いで仕事をしているこちらからすれば今日の状況は不審なぐらいだった。そりゃあ、常時あのメンバーで群れているわけではないだろうが、彼が昼間から一人で部屋に閉じ篭もって何をしているのか――――勉強であれば話は別だが――気にならないと言えば嘘になる。

僕は微かに胸中で揺らめく好奇心を抑えられず、そっとソファーから立ち上がった。階段下まで歩き、階上を見上げてみるが明かりの付いていない先は暗くて何も見えない。しかし彼の部屋の扉がしっかりと閉じているのだけは分かった。無意識の内にごくりと喉を鳴らし、唾を嚥下する。らしくないぐらいに、自分が静かに興奮に近い昂りを感じているのがよく分かった。再び、何秒か耳を澄ませてみるがやはり何も音は聴こえない。もしかして向こうもこちらの存在に気付いているのだろうか。外での菜々子ちゃんとの会話が聴こえていれば僕だと分かるはずだが、もし聴こえていなければ彼からすればこちらの存在は泥棒か何かのようなものだ。上まで上がって、いきなり殴り掛かられたりしたらたまらないなぁと苦笑しながら階段に足を掛ける。木の床が僅かに軋んで音を立てる。これぐらいの音は聴こえないだろうが、なるべく足音を立てないように昇る。さながら泥棒か不審者のような自分に笑いが込み上げてきた。これではまるで、かくれんぼの鬼だ。そうやって静かに昇って行き、階上へと到達する。数歩先にある扉は瀬田くんの部屋の扉だ。さて、どうやって入ろうかと暫く悩んだ後――――スタンダードに扉をノックすることに決めた。

三回、短くノックをしてみる。

「…………瀬田くん?」

呼びかけてみると、さっきよりも小さな物音がカタリと聴こえ、それから数拍後に上擦った彼の声。

「は、い」

普段よりも僅かにワントーン高く、焦ったような声にどくりと心臓が跳ねる。何故だかひどく、悪いことをしている気分になった。

「ごめんね、勝手にお邪魔してて。ちょっと堂島さんに雑用押し付けられちゃってたんだけど……キミにも伝言があるんだ」
「……そう、だったんですか」
「えーっと、入ってもいいかな?」
「―――……、はい」

いつもと変わらないように声の調子を意識しながら問い掛けると、一瞬躊躇ったような様子はあったが瀬田くんは了承してくれた。ひやりと冷たいドアノブを捻り、扉を押し開けると室内は少しだけ冷房が入っているのか涼しい。しかし瀬田くんは、布団を敷いてしっかりと毛布を肩まで掛けた状態で半身だけを起こして僕を見上げていた。僅かに目が充血していて頬が赤く、薄らと肌に汗を浮かばせていた。僕と目が合うと、彼は恥ずかしそうに目を伏せて視線を逸らす。

「風邪、ひいたの……?」
「…………情けないことに、夏風邪みたいです。あまり俺に近寄らない方がいいですよ」
「へぇ……珍しいね、キミが体調を崩すなんて」
「ええ、自分でも驚いてますよ」

苦笑して前髪を弄る瀬田くんは普段とのギャップも相俟ってか、年齢の割に幼く見えた。しっかり者で何でも卒なくこなすイメージが大きかったのもあるのかもしれない。後ろ手で扉を閉めて、布団の横に腰を下ろして瀬田くんと同じ目線になる。やはり風邪というのは嘘ではないらしい。紅潮した頬と少し枯れた声が言外にそれを語っていた。

「きつい?」
「少し。熱が引かないんですけど、それよりも喉の痛みがひどくて」
「あー、確かコクサッキーウイルスが原因だっけ。これから高熱になるかもしれないね。水分はちゃんと摂ってるかい?」
「あ、はい。一応お茶を飲むようにはしてるんですけど……」
「お茶よりアクエリアスとかポカリスエットの方がいいよ。確か冷蔵庫にあったよね」
「はい。…………足立さん、やけに詳しいんですね」
「あ……あー、前の同僚が医療関係に詳しかったから、ちょっとだけね」
「そう、なんですか」

頷いて、それから静かに俯いた瀬田くんを見詰める。伏せられた睫毛がまるで女の子のそれのように長くて綺麗だった。また、心臓がどくんと脈打つ。苦しげな呼吸を繰り返す瀬田くんの額から、透明な雫がつうっと流れていく。頬を伝って流れ落ちた汗が毛布に染みを残し、それが何故だかひどく艶かしく映った。どくり、どくり。心臓が高鳴るのに呼応するみたいに手が勝手に瀬田くんへ伸びる。頭の中ではけたたましく警鐘が鳴り響いていたが、衝動は止まらない。気が付いて顔を上げた瀬田くんが僕を見上げて首を傾げる。足立さん?掠れた声が妙に色っぽく鼓膜を揺らす。そっと前髪を掻き上げて彼の額に触れると、汗でじっとりと濡れたそこは火傷みたいに熱を孕んでいた。手の平から伝わる熱が、腕を伝って僕の身体にも流れてくるような錯覚に陥る。冷房が効いているはずの部屋が異様に暑く、この空間の異常性を意味していた。見下ろした先の澄んだダークグレイが、困惑するように揺れる。風邪、うつっちゃいますよ。戸惑った声が僕を静止するように呼びかけるが、それさえも煽る要素でしかない。額から頬、顎へと手を滑らせると瀬田くんの肩がびくりと大仰なぐらいに跳ねた。わざと声を低めて名前を呼ぶと、声にならない声が漏れる。この反応を見る限り、やはり僕の予想は当たりのようだった。

「ねぇ瀬田くん、身体、すごく熱いね」
「は、発熱して、ますから……」
「でもさぁ、キミ、肩までしっかり毛布被ってるよね」
「……っ、!」
「ねぇ瀬田くん、なんで?」
「そ……れ、は、汗が冷えたら、また悪化すると、思って」
「こんなに、熱いのに?」
「ひ、うっ………!」

大きくはだけたシャツから覗く鎖骨に手を滑らせ、愛撫するように肌を撫でる。嗅覚を刺激する彼の汗の匂いに、衝動的に首筋に口付けると上擦った声が上がる。あーあ、はしたない声上げちゃって。これじゃあ肯定してるようなもんだよ。まだまだキミもツメが甘いってことだね。唇が弧を描いて歪んでいくのを抑えられないままに抵抗の出来ない彼を押し倒す。健康状態の彼ならば難しいだろうが、この状態の瀬田くんを押し倒すのはいとも容易いことだった。彼が驚きに目を見開いている隙に毛布を引き剥がすように剥ぐ。慌てた声が上がったが、そんなことは無視してやる。

「瀬田くん」
「……っ、あだち、さ」
「キミは嘘が下手なんだねぇ。……あぁ、それとも隠す気なんて無かったのかなぁ?わざとやったの?」
「ち、ちがっ………!」

必死に否定する瀬田くんの充血した瞳は、熱のせいとは言い切れない原因からの涙で潤んでいる。その表情が僕の嗜虐心や支配欲を刺激して仕方ない。この子は僕を煽ることに関しては天才的らしい。将来、もし僕のことを追い詰めて対峙するようなことがあれば、その時はどういった意味で煽ってくれるのだろうと考えただけでもぞくぞくと身体が震えた。イレギュラーな彼の存在は僕の中で想像以上に大きく、そして重要なスイッチになっているようだ。現に今、理性というスイッチが切れてしまいそうになっているように。

「別に隠す必要なんて無かったのに。自慰なんて、青少年の健全な生理現象じゃないか。熱のせいで性欲が増しただけなんだろ?健全極まり無いじゃないか」
「、っ………」
「隠したりしなきゃ、こんなことにはならなかったよ?キミが必死に隠そうとするからだよ。君自身が僕を煽ったんだ」
「や………そんな、わけ……!」
「総司くんは、悪い子だね」
「ぅ、あ……っ…」

真っ赤に染まった耳朶を嬲るように甘噛みし、囁きを脳髄に注ぎ込むように告げる。触れた瀬田くんの身体はどこもかしこもが熱い。熱のせいなのか、蕩けた瀬田くんの瞳はいよいよ正常な思考を放棄しようとしていた。ゆらゆらと揺らぎ、そして諦念したようにゆっくりと目が伏せられた瞬間、僕は思わず舌なめずりをする。白磁のような綺麗な肌を流れ落ちる塩水を舐め取って、自身の唇がゆるりと吊り上がっていくのを、どこか頭の片隅で感じた。

すみません堂島さん、まだ暫くは署に戻れそうにありません。強いて理由を言うとすれば……そうですねぇ、貴方の甥っ子が僕のことを誑かしたからです。

え、伝言?あぁ忘れてました。


(それもこれも全て、暑さのせいなのだから仕方がないでしょう?)



end.




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