ブラックアウト・フォールダウン



その微笑みはまさに女神と呼ぶに相応しいうつくしさで、僕は手にしていた飲みかけのビール缶を落としたことにも気が付かずに惚けたように彼女を見つめていた。しゅわしゅわと泡の弾ける音がどこか遠く聴こえる。床に広がっていく冷たい液体がスウェットを濡らしていくことなど気にも留めず、僕は静電気で纏わりつく埃で汚れたディスプレイに縋り付くように近寄って画面の縁に触れる。画面の向こうの柔らかな笑顔はとても明るく、ぱっちりとした目は大きく、快活な印象を受けるが、真っ赤なルージュを引いた唇はやけに艶かしく、倒錯的に彼女の色気を引き立たせる。そして、文章を読み上げる声は凛としていて澄んでいるのに何処か優しい。にこり、控えめな笑顔を残して彼女の姿が消える。切り替わった画面に映し出された胡散臭い笑顔のニュースキャスターに舌打ち。僕が見たいのはお前みたいな男じゃない、彼女なんだ。もう彼女が映らないと分かり、溜息を吐いて俯いた。名前ぐらい覚えておけばよかった。彼女は一体、どんな名前なのだろう。嗚呼、気になる。


×


翌日、何となくまた彼女を見れるのではないかと思ってテレビを付けた。夕方六時のニュース番組にチャンネルを合わせるとまた昨日の男が映って気分が悪くなる。彼女のために見ているのにどうしてお前の顔なんかをみなきゃいけないんだ。苛立って頭を掻き毟る。その日はひどく、機嫌が悪かった。しかし、不意に男が女の口にした瞬間、僕は勢いよく頭を上げた。
切り替わった画面に映ったのは、紛れもなく彼女だった。

「はい、山野です」

にこり、昨日と同じ笑みを浮かべてリポートを始めた彼女はやはり美しい。白い肌は絹のようで、声は鈴を転がすように綺麗だった。字幕には彼女のフルネームが表示されている。ふと、彼女の名前をそっと呟いてみた。ごくり、唾を飲み込んで口を開く。山野、真由美。…………山野真由美。それが彼女の名前だった。もう一度、今度は反芻するように口にしてみた。山野真由美。すると、それはまるでずっと前から知っていた名前のように僕の中にすぅっと入ってきた。山野真由美。山野真由美。山野真由美。……あぁ、なんて綺麗な名前だろう。僕が今まで聞いた名前の中で一番美しくて甘美な響きをしている。名は体を表すとはこういうことなのか。実に素敵だ。彼女を呼ぶたびに背筋に甘やかな電流が奔るようだった。緩やかなその痺れはゆっくりと脳髄にまで達し、ひどく僕を癒してくれる。真由美、あぁ真由美、キミはなんて優しいのだろう。

いつの間にか彼女の中継は終わっていて少しだけ後悔したが、それでもまた明日この時間に会うことが出来るのだと思えば自然と頬が緩んだ。静かに目を閉じれば脳内に彼女の声が響く。可憐な声が恥じらうように僕を呼ぶ。こんな僕を慰めてくれるのかい?そんなに優しい笑顔で僕を嬉しくさせてくれるんだね。嬉しいなぁ、僕には今までそんな人は居なかったんだ。真由美が初めてなんだよ。え?嘘だって?あははは、何を言ってるんだい?そんなわけが無いじゃないか。本当だよ、本当。誓ってキミが初めてだ。……拗ねたの?でもそんなキミも可愛いなぁ、ちょっと意外だけど。だけどそんな所も好きだよ、ギャップってやつ?まぁどんなキミでも僕は好きだけどね。……照れた?あっはは、可愛いなぁ本当に。可愛い。可愛いよ、真由美。僕の真由美は可愛い。世界一、可愛いよ。

……――――本当に、独り占めしちゃいたいぐらい、真由美は可愛いね。


×


「ッ、…………」

頭を劈くような痛みに私の意識は覚醒した。鋭い痛みは後頭部に強い衝撃を受けたせいらしい。どうやらひどく打ち付けたらしい。もし打ち所が悪ければ……あぁ、深く考えるのはやめておこう。何故か鉛のように重く、倦怠感が支配する身体を起こして周囲を見渡してみる。深い闇は暗く、まだ慣れていない目では何も見えない。一体、此処はどこなのだろう?今までのことを思い出そうと必死に頭を働かせようとしても靄がかかったように何も思い出せない。此処に来るまでの経緯が全く分からなくて不安に駆られる。

「――――…なに……ここ……」

ようやく慣れてきた目で周囲を注意深く見ると、そこは狭い部屋だということが分かった。フローリングの床はやけに冷たい。部屋自体は飾り気の無い木造の部屋だが、部屋の中央には椅子があり、スカーフを括りつけたロープが天井からぶら下がっていた。それがまるで絞首台を連想させて私は大きく身を震わせた。 嫌だ、何を考えているの。そんなわけがないじゃない。ようやく頭痛が治まってきて、私はゆっくりと立ち上がって周りを見渡した。壁一面にはポスターがびっしりと貼られている。何のポスターかまでは分からなかったが、どうやら写真が載っているらしい。しかし簡素な部屋のはずが、ここはどこか異常な雰囲気に満ちている。一刻でも早く、脱出するための手段を探そうと一歩踏み出した瞬間、強烈な目眩に襲われて私はその場にがくりと膝をついた。視界がぐらぐらと揺れるような、今まで感じたこともないような目眩。恐怖と混乱に陥り、髪を掻き毟って頭を抱えた瞬間。聴き覚えのない声が鼓膜に響いた。若くもなく、老いてもいない、私と同年代ぐらいの男の声だった。

「"真由美"」

陶酔したような響きを孕んだ声はゆっくりと大きくなって私の脳髄を犯していく。その声が一体誰のものなのか、考えるよりも早く思考が靄のようなものに包まれて意識が遠ざかる。目眩は薄れ、意識だけがじわりじわりと薄れていく感覚。

あ、やだ、そんな、私はまだ、気を失いたくなんて、ないの、n


(ハロー、愛した君よ)



end.




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