くちびるのまほう



冬、乾燥が気になる季節になった。それは男子である俺も例外ではなく、軽く切れた唇にピリッとした痛みを感じて眉を顰めた。元から肌が弱いらしく、冬になると男性用化粧品を購入していた俺だったが、今年の唇の荒れは例年以上だった。かさつき程度ならまだ良いものだが、どうしても切れてしまえば薄く血が滲んできて鉄の味を感じてしまう。そんな時、何の気なしに眺めていたチラシに俺はそれを見つけた。

『冬の大敵!唇の乾燥にリップクリームはいかがですか!?』

リップクリーム。それはクラスの女子が休み時間前に唇に丹念に塗っているあの可愛らしい小さなスティックだろう。リップクリームが何かはすぐに分かったが、いまいち自分が使うイメージをすることが出来ない。大体リップクリームというのは女子が使うものではないのだろうか。それとも今は化粧品と同じように男性用のリップクリームなんてものも売っているのか。そんなことを考えながらチラシをよく見てみると小さく『男性用』の表記を発見することが出来た。俺はそれに喜び、早速チラシの店をチェックし―――そのドラッグストアがジュネスの中にあることを知って苦笑した。

店長の息子である以上、ジュネスの中は知り合いだらけで、俺は知らなくても相手には『店長の息子さんの陽介くん』と一方的に知られていることが少なくない俺としては、そこでリップクリームを購入することに抵抗が無かったわけではない。しかし近くに他のドラッグストアがあるかと問われれば、精々近くても隣町にしかないような有り様である。それによくよく考えてみれば俺が購入するのは男性用のリップクリームだ。女子が使うようなものを購入するわけではないのだから別に恥ずかしい理由も無いはずだ。そう思った俺は翌日の放課後、月森の誘いを断り、気を取り直してジュネス内のドラッグストアに向かった。

「あれ……?」

しかし、意気揚々と向かったリップクリーム売り場に並んでいたのは可愛らしい色とりどりのパッケージに入った女性用リップクリームだった。動揺を隠せずに再度確認をするが、周囲を見渡せど女性用のそれしか陳列されていない。チラシの『男性用』表記は一体何だったのかと恨めしく思いながらも、仕方なく女性用リップクリームをよく見てみる。勿論、周囲に店員が居ないことを確認してからだ。どうやらたくさん並んでいるリップクリームは会社も違えば成分や香りまで多種多様らしく、シアバター配合や保湿成分配合、香りならばストロベリーやピーチ、ライムにアップルなど実に豊富である。もちろん、そんな成分も香りも表記されていない薬用リップクリームもあったが、なんとなくそのパッケージの素っ気なさは好ましく思えない。だからといって、過剰な謳い文句が並べ立てている商品も買う気にはなれない。若干の疲労を感じながら商品を吟味していると、パッケージも派手ではなく、慎ましくシンプルなものを見つけた。パッケージにはシアバター配合、保湿成分配合などと小さく隅に書いてある程度だ。ベリーの香りという記載があり、他にはピーチ、カシス、シトラスの香りもある。ベリー以外のどれもはピンと来る香りではなかったため、俺はベリーの香りを手に取った。


×


「おっはよー花村!」

勢いよく背中を叩かれ、俺は危うくつんのめりそうになった。慌てて振り返れば、予想通り肉食暴力女の里中が立っている。

「おま……朝から暴力反対……」
「は?なに言ってんの?こんなのただの挨拶じゃん」
「挨拶……?」
「そうだよ、花村くん。千枝にとってはただの挨拶なんだから」
「天城!……おはよう」
「ちょっとちょっと、なにその私との反応の違いは」
「おはよう、花村くん」
「……何よもう、失礼な奴……」
「あはは、千枝ってば変な顔してる」
「うるさーいっ」

朝からきゃぴきゃぴと元気な里中と天城を見て、ふと気付いた。2人とも唇が荒れていない。

「……なぁ、ちょっと2人に訊きたいことあるんだけど。リップクリームとかって、やっぱ塗るもんなの?」
「んー?そりゃあ塗るけど、私の場合は夜に塗るぐらいかなぁ」
「あ、そうなのか?」
「私の場合は荒れやすいから常に携帯してるなぁ。休み時間にたまに塗り直してるよ……こっそりね」
「へぇ」

二人は俺の問いに答え、どうして聞くのかと言いたげに首を傾げる。俺はそれに気付かないふりをして頷いた。

「分かった、さんきゅな」
「え、花村待っ…」
「あらら、行っちゃったね」
「…………」
「千枝」
「……なに?」
「花村くんと話せなくて寂しいの?」
「なっ……なに言ってんの!?そ、そんなんじゃない!」
「うふふー」
「ちょっっと、待ちなさい雪子っ」


×


「バレてない……よな?」

マフラーで口元を覆いながら確認するように呟く。今までの会話で不自然な所は無かったし、2人の視線が俺の唇に注がれることは無かったはずだ。俺は自分に言い聞かせるように思い直し、歩を早めた。それから午前中の授業を終え、昼休みになった。月森に弁当を一緒に食べようと誘われ、俺は屋上へ来ていた。空は真っ青に澄み渡り、少し風は冷たかったが陽射しは暖かい。

「思ったよりも寒くないな」
「そうだな。日差しのお陰であったかいぐらいだ」
「陽介、腹減ってるか?」
「当たり前。ぐーぐー鳴ってるぜ!なぁ月森、今日の弁当は何だよー?」
「がっつくなよ、陽介」
「だってお前の作る弁当は美味いじゃねーか。がっつくのも仕方ないだろ?」
「……ありがとう」

お世辞抜きで褒めると、月森は嬉しそうにはにかんだ。クールな印象が強い月森だが、笑うと年相応の表情になってどこかあどけない。

「なぁ月森、早く弁当食おうぜっ」
「うん。でも、その前に……」
「え?」

何だよ、と振り返った瞬間に唇を奪われた。柔らかな月森の唇が触れ、驚きに目を見開くと悪戯っぽく光る砂色の瞳に微笑まれて、たちまち身動きが取れなくなってしまう。

「っ、ふ……ぅ」

角度を変えながら幾度も、啄むように優しく口づけられる。その心地良さに目を閉じそうになったが―――俺ははっと我に返り、月森の胸をぐいと押し返した。

「―――っ、ちょっと、待って!」
「……え?」

ぱちくりと目を瞬かせる月森の表情に少しだけ罪悪感が生まれる。流されて忘れそうになっていたが、今日の俺は―――

「陽介?」
「あ、えっ……と、月森」
「……ごめん、嫌だったか?」
「え、あ、違う!違うんだよ!」
「……違うのか?」
「うん……あのさ、月森」
「なに?」
「……キスしてさ、なんか俺……変じゃなかった?」
「…?陽介はいつも通り可愛いけど」

真顔で首を傾げながら何を言っているんだ。これだから天然は……と俺は肩を落とす。

「可愛くねえ!」
「可愛いよ。陽介はいつも可愛い」
「っ、……そ、そうじゃなくて!問題はそこじゃないんだ!俺が可愛い可愛くないはどうでもよくて」
「じゃあ可愛い」
「だからそこはどうでも……一旦置いておいてくれ……」

俺が可愛いのは良くない。断じて良くない。このままだと月森に押されて可愛いと自分で認める羽目になる。常々思っているが、可愛いという形容は男に使うべきじゃないだろう。

「―――……何か、変なところなかった?」

改めて俺が尋ねると、月森は神妙そうに考え込む。しばらく黙り込んだ後、あぁと頷いた。

「あった」
「え、どこ!?」
「唇。リップ塗ってたよな」

返答は疑問形ではなく断定形。やはり月森は気付いていたらしい。流石というか何というか。

「いつから気付いてたんだよ」
「朝から」
「……朝から?」
「うん、そうだよ。教室に陽介が入ってきた時に、何かいつもと違うなぁって思って。よく見てみたら唇が荒れてなかったんだ。それに心なしか、いつもより柔らかそうでしっとりしてたから……早く昼休みになってキスしたいなぁって思ってた」
「……だ、誰もそこまで言えとは言ってないぞ……」
「え?そう?……あと、ちょっとむらっとしたかな」
「なっ…なに言ってんだよ!!」
「……駄目だった?」
「だ、だめに決まってんだろっ!」

危ない、ちょっとぐらつきかけた。いや、実際ぐらついたけど。悪びれた様子のない表情でそうかなと呟く月森は取り敢えずスルーし、俺は嘆息する。それからじわじわと込み上げてきた熱を誤魔化すために膝の間に顔を埋めた。耳朶まで熱を持って、首筋もすっかり熱かった。

「ね、陽介」
「……なんだよ」
「恥ずかしかったの?」
「―――あぁ」
「でも俺、口紅はあんまり好きじゃないけどリップなら嫌いじゃないよ。キスしてみて分かったけど、思ったよりもべたつかないし。それに陽介の唇が荒れるのは嫌だし、柔らかい方がいい」

それに、と言葉を切った月森をそっと見上げると、柔らかく眇められた瞳に見つめられた。砂色の瞳に吸い込まれて視線を逸らせない。

「この香りは甘くて好きだ。これ、ベリーの香りだよね。ストロベリーは菜々子が叔父さんに買ってもらってたから分かるんだ。でもストロベリーより俺はこっちが好きだな。陽介がつけてるから。……あぁ、こんなこと言ったら菜々子が機嫌を悪くするかなぁ」

微笑を浮かべながら呟いた月森は幸せそうで、恥ずかしくて遮りかけた俺も思わず苦笑を漏らしただけに留まった。

「……月森も、リップ買えば?」
「そうだね。でも、俺は遠慮しておくよ」
「なんで?」
「だって、陽介とキスをすればもう1本買う必要なんて―――」

固ばった指が顎に触れたと思えば、端正な顔が近づいてきた。ふと視線を落とせば、少しかさついた唇がそこにある。触れた唇はやっぱりかさついていて、でもそれも繰り返し口づければそれも気にならなくなっていった。


(ふたりで分けあう、)



end.




ホーム / 目次 / ページトップ



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -