濃い霧が昏い街を覆う、雨の降る放課後、目的も無くふらりと立ち寄ったジュネスで彼と出会った。いつものようにエレベーターの手前で硝子越しに空を見上げていた彼は、こちらに気が付くとへらりと軽い笑顔を浮かべた。
「やぁ、瀬田くん」
「…どうも」
「雨、止まないねぇ」
「天気予報では、夕方には止むと言っていましたが」
「夕方が今の時間なら、天気予報はハズレみたいだね」
彼はスーツの袖から覗いたシルバーの腕時計を確認してあははと笑った。時刻は既に17時。雨は止む様子も無く、静かに降り続いているだけだ。ふと、窓の外から視線を戻して彼を見ると僅かに肩と髪が濡れていた。それに傘も持っていない。
「…足立さん、」
「ん?」
「今日は、本当に雨宿りなんですね。サボりじゃなくて」
「え、あぁ、うん」
曖昧に笑う足立さんはいつも通りの間抜けな刑事だった。
それなのに、何処か
「―――今朝は天気予報を見る時間も無くてさぁ」
何処か
「参ったよ。このままじゃあ、ジュネスに泊まり込みだ」
違和感が
「……本当、参っちゃうよ」
明らかな、違和感が。
「……そうだったんですか」
「うん。キミは…あぁ、そうだよね、天気予報見たんだからちゃんとあるよねェ」
「は、い」
「ま、僕は仕方無いから雨足が少しでも弱まるまで待ってから帰ることにするよ」
「……傘、買わないんですか」
「あぁ、そうだねぇ…」
「ジュネスにも、売ってありますよね」
「うーん…まぁ、売ってあるっちゃ売ってあるけど、コンビニみたいに安くはないからさぁ」
「………確かに、そうですね」
憂鬱そうに呟いた足立さんに頷き返して俺も窓の外を見遣る。それから暫時、僅かな沈黙。何を口にすることもなく、俺達は変わることのない同じ風景を眺めていた。
その沈黙を破ったのは、俺だった。
「………あの、足立さん、」
「んー?」
間延びした返事をして足立さんがこちらを振り返る。濃灰色の瞳の中に、自分の顔が映っていることにひどく安堵した。と同時に、自分の中に渦巻く浅ましい独占欲という執着心に気付かされる。それでも俺は口を開く。欲に塗れた言葉を舌に絡めて吐き出す。
「俺、折り畳み傘持ってるんで良かったら使いませんか?」
「…え、」
目を丸くする足立さんに対して僅かな罪悪感と、未だ拭えない違和感が同時に飛来するのを感じながら俺は微笑んだ。
「いいのかい?」
「はい。鞄に入れたままにしていたのを、今思い出して」
「…じゃあ、お言葉に甘えて」
借りてもいいかなぁ、と笑んだ足立さんに鞄から取り出した黒い折り畳み傘を渡す。
一瞬だけ触れ合った指先は、冷たかった。
「あ、そうだ瀬田くん」
鞄を閉める俺に、足立さんは思いついたような声を上げた。視線を上げると、笑顔。首を傾げて何ですか、と尋ねれば柔らかな声で耳元に囁かれた。
「今度、お礼したいから僕の家に来てくれないかな」
「……え…」
「あぁ、嫌だったら勿論いいんだけどね。けど、何かお礼したいなーって思ってさ」
「え、あ、そんな…嫌じゃないです、よ」
「あ、本当?」
「けど、傘ぐらいで…」
「いやいや、助かったのは事実だからね」
「……はい、じゃあ」
お邪魔します、と呟くように返すと、足立さんはたちまち嬉しそうに破顔した。約束だからね、と言われて思わずつられて笑みを零しながら頷く。
「分かりました」
「じゃあまた連絡するよ」
「はい。待ってます」
別れの挨拶を告げ、去っていく足立さんの後ろ姿を見送る。足取りは何処か軽く、その様子に微笑ましい気持ちになる。すると、扉の前で足立さんがぴたりと足を止めて振り向いた。優しい笑顔で気をつけてね、と言われて頷くと満足したような笑みを浮かべて彼は去って行った。
その笑みに何故だろう、背筋をひやりと撫でるような、緩やかな悪寒が襲ったのは。
期待通り、足立さんは俺にお礼をさせてくれと言ってきた。俺はそれを予定調和として有り難く受け取った。これがチャンスだと思った。それなのに
「………おかしい、」
拭えない違和感はまるで、俺の方が何かに騙されたような、狐につままれたような感覚だけを残していった。
雨はまだ、降り止まない。
(何故ならば、予想だに出来ないからだ)
end.