始まりは憂いを帯びて


肌寒さが漸く感じられなくなった麗らかな春。雲雀がここ最近やけに機嫌がいいのを、草壁は喜ばしくも不思議な気持ちでいた。並盛の全ては彼の機嫌ひとつで決まると言っても可笑しくないので、雲雀が上機嫌であることに越したことはないのだが、彼があからさまにそのような様子でいるのを今まで見たことがなかったので、どうにも戸惑ってしまうのだ。
けれどもそれを疑問に付すのは躊躇われる。雲雀を慕う風紀委員達のなかでは草壁が一等付き合いが長かったが、それでも踏み入ることを許されない部分の方が、ずっと多い。好奇心を抑え、機嫌を損ねるぐらいなら胸に秘めるべきだと判断できるからこそ己は副委員長足り得るのだと、草壁は誰に言われるまでもなく理解していた。

「それでは委員長、失礼致します。」
「ん。」

現在風紀委員の活動拠点である生徒指導室を辞し、定時の見回りへと向かう草壁を、雲雀が一瞥さえせずとも構わない。草壁は彼と友人になりたくて傍らを望むのではないからだ。
草壁にとって雲雀は絶対的王者である。彼の本質を見ようとしない一般人は彼を畏怖するばかりであるが、もしひとたび彼の本質を知れば、頭を垂れずにはいられなくなるだろう。それほどに雲雀は強かで、孤高で、草壁は並べるものなどいないように思っていた。
だから、その雲雀が蕩けるような眼差しをたったひとりに向けているのに、見回りを終え、ついでに雲雀に目を通して貰わねばならない書類やら貢ぎ物やらを方々から回収して、生徒指導室へ戻った草壁は声もなく瞠目する他なかったのだ。

「つなよし、入学おめでとう。」

ソファに座る、草壁の知らない胡桃色の小さな子供を、その隣に腰かけた雲雀が、ついぞ聞いたことのないような甘い声で祝う。いとけない風貌の子供は怯える様子もなく、まろい頬を仄かに染めて、なされるがまま雲雀に頭を撫でられている。

「ありがとうございます、」

つなよし、と呼ばれた子供は、どうやら新入生らしい。はにかみながら、「やっと雲雀さんに追い付けました。」と嬉しそうに笑う。

「うん、待ちくたびれてたよ。」

雲雀がそれに微笑み返したのを見て、声をかけるタイミングをすっかり失っていた草壁は、その瞬間に抱えていたもの全てを両手から滑らせた。受けた衝撃を形容するならば、驚愕と言えばいいのか。風紀を乱す不届き者を狩る際に嘲笑するその唇がそんなに柔らかく弧を描くことがあるだなんて。誰も、誰も知らないだろうそれを向けられるこの子供は、一体彼の何なのだ。
落下音に、つなよしがびくりと反応して草壁を見た。瞬いた、大きな蜂蜜色の瞳が揺れる。

「あ…」
「…副委員長。」

雲雀が顔を顰めたのに、何たる失態だろうかと急いで膝を折る。「申し訳ありません、」紡いだ言葉は意味を成すだろうか、いや成すまい。けれどもトンファーを振りかざされて意識を失ってしまう前に、草壁は後々の為にせめて書類だけは纏めてしまっておきたかった。雲雀の鉄槌よりも、並盛の一切を取り締まっているが為にただでさえ膨大な書類決済が滞ることの方が、草壁には恐ろしい。
そうして草壁が散らばっている紙片をせっせと拾っていると、それを手伝い出す小さな手があった。

「大丈夫ですか?」
「…お前は、」
「沢田綱吉と言います。…初めまして。」

雲雀の傍らで微笑んでいた子供だった。その名前だけは聞き覚えがあった。《並盛の神童》沢田綱吉。
いとけない面差しが、薄い色素で強調されていて、草壁は何と頼りない風情だろうかと思う。名高い《神童》とは言え、あの雲雀が傍に置くような生き物にはとても見えない。

「草壁哲矢…です」

草壁が、敬語にしようかしまいか迷いながら、どうにか名前を口にすると、綱吉は「じゃあ草壁さんとお呼びしますね」と嬉しそうにした。

「草壁さん、はい、これで全部です。」
「ありがとうございます。」

集め終わった書類を抱えて、草壁は雲雀をちらと見やった。雲雀はソファに腰を沈ませたまま、ただ優雅にティーカップを傾けているだけだった。収拾がついたのに気づいても、綱吉を手招いただけで、草壁をどうしようという様子は見られない。表情も上機嫌そのままだ。

「委員長、」
「何?書類ならそこに置いておいてくれればいいよ。」
「いえ、そうではなく。恐れながら、沢田さんは一体…?」

何故ここにいて、どういう関係なのか。
普段なら絶対に踏み出さないラインを、草壁は初めて跨いだ。それが出来たのは先程拾った命があったからであり、一度なくしたと思ったものを再びなくすことを恐れる理由が草壁には思い付かないからだ。
そして結果として、草壁の問いに雲雀が機嫌を損ねることはなかった。寧ろ自慢気な様子で、雲雀は綱吉の肩を抱いた。

「幼馴染みみたいなものだよ。あと、今日から風紀委員会書記。」
「書記、ですか?」
「うん。主に書類整理担当だから、ちょっとは楽になるんじゃない?」
「…細かいことは苦手なので、あんまり期待しないで下さいね。」

これまた突然の人事だ。それも、今まで作らなかった幹部の席を作り与えるとは、雲雀は余程この子供を気に入っているらしい。肩を抱かれた綱吉は、さっと頬を染め上げながら苦笑しているが、満更でもなさそうだ。
これは下が荒れるかも知れないと草壁はひっそりと溜め息を吐いた。書類整理担当であれ何であれ、トップがトップなだけに、風紀委員会に所属する限りはどうしても実力を求められるのだ。雲雀のお気に召した人物にしては、綱吉は容貌があまりに儚すぎる。


そんな草壁の憂鬱を置き去りにして、翌日、雲雀宣下のもと、沢田綱吉は書記へと就任した。そしてまたその翌日に、全てが杞憂だったことを草壁は自らの目で思い知ることになったのだった。




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