空 と 月 と 、 君 と


人影のない廊下を歩く。
足袋越しに踏む床がもう冷たい。

(・・・涼しくなってきたな)

つと顔を上げて空を見上げれば、白い月がぽっかり空に浮かんでいた。
廊下の突き当たりで足を止め、しばし月に見入る。
じっと見つめていると、手を伸ばせば届きそうな気がしてくるから不思議なものだ。

遥か遠く、触れることのできないもの。
そのすぐ傍に己がいると感じられる瞬間が好きだった。
そして現実に戻り、それは錯覚で自分はやはりここに居て、手を伸ばしたって届きはしないと思い知らされるのだ。
伸ばしたところで然して距離は縮められない、己のちっぽけさを身にしみて感じる。
・・・そう感じることは、決して不快ではなかった。

心洗われる月の光。

目を細めて静かに浴び、深々と息を吐き出す。
大分落ち着いた。

気を取り直して踵を返し、目的の部屋を目指す。
部屋に近づくとともに、また心が落ち着きなく波打ち始め・・・敢え無くその前を通り過ぎた。
そうしてまた廊下の突き当たりで立ち止まる、空を見上げる。
一体何往復したことか。

(次で最後にしよう)

実はそう思ったのももう何回目だったりするわけだが、そこまで頭が回っていない。
今度こそと来た道を引き返し、速度を緩めない足と葛藤している、丁度その最中。

「なーにしてるの、一君てば」

夜風に乗って、楽しそうな声がした。

一はぎょっと顔を上げて、辺りを見渡す。
部屋の中からではない、どこか離れた場所から聞こえた。
少し高いところから降ってきたような気がしたので、目線を上にする。
視界に入って来たのは何度も見上げていた丸い月であったが、よもやそんなことはあるまい。

「こっちこっち」

再び響く声と共に、庭の木の枝がガッサガッサと派手な音を立てた。
葉っぱがひらひらと舞い落ちる。

「・・・そこで何をしている、カレン」

不機嫌そうな低い声にも負けず、名を呼ばれたカレンは木の上から笑い返した。

「お月見だよ。一君こそ、何してるの?」
「・・・」
「さっきから廊下を行ったり来たり」
「・・・いつから見ていた?」
「うん?とりあえず五回程往復してるのは見てたけど」

一自身、何往復したか覚えていないので、果たして五回と言う数が多いのか少ないのか分からない。

(・・・だが)

しばらく見られていたのは確かで、しかもカレンは気が付いていないが、目的地は実は彼女の部屋だった。

そう、カレンに用事があったのだ。
否、用事という程、重要なことではない。
ただ昼間市中に出掛けた時、以前隊士から話に聞いていた美味い団子屋の前を通り掛かり、店の主人が今夜は中秋の名月だと言っていたこともあり、ついつい団子を買ってしまったわけだ。
勿論皆への土産に買っていったのだ。
だが屯所に戻るや否や、副長に呼び出され、あれやこれやと仕事を片付けている内にいつの間にか夜になり、月も昇ってしまった。
今更休んでいる者を起こして月見と言うのも、具合が悪い。
だがカレンならば起きているかもしれない、そう思って声を掛けようとしたのだが、彼女の部屋まで来てみれば明かりは既に消えている。
寝ているのならばわざわざ起こす程の用でもないが、折角の団子を無駄にもしたくない。
一人で食べればいいと言うかもしれない、だが如何せん数が多い。俺一人では食べきれぬ・・・

「・・・め君、一君ってば!」

一際大きな声が響き渡り、一は我に返った。
カレンが枝の上から腰を屈めるようにして一を見下ろし、訝しげに眉を顰めている。

「どうしたの、ぶつぶつ独り言言って」
「・・・何でもない」

どうやら声に出ていたようだ。
一がそっぽ向く。

そっとしておいて欲しいのが何となく伝わったので、カレンもとりあえずそれ以上は追及しないでおくことにした。

「まあいいや、悩み事?気分転換に剣の相手でもしようか?」
「・・・否、今は遠慮しておく」
「そう?じゃあ一緒にお月見する?」

こちらから誘うつもりだったのに、逆に誘われてしまった。
気まり悪いことこの上ない。
だが断る理由もない。

一は黙ったまま庭先に下りた。
カレンが登っている木の傍まで歩いて行くと、頭上から手が差し伸べられる。

「ほら、一君も登っておいで」
「・・・枝が折れるだろう」
「大丈夫だよ」

笑って流すカレンの手に、一は自分の手ではなく、手に持っていた包みを押しつけた。

「ん?何・・・」

包みを膝の上で開いて、カレンは歓声を上げる。

「わーお!お団子!」
「月見には欠かせんだろう、特にあんたの場合は」
「ありがと!」

嬉しそうな声だ。
だが一は未だ気まり悪く、カレンを見れないでいる
そんな彼の視界に、ふわりと白いものが映った。
ぎょっと驚いて目を瞠る一の耳にカレンの声。

「じゃあこれをあげる、お礼に」

目の前でゆらゆら揺れているのは、白い穂だった。

「・・・ススキ・・・?」
「そ、さっき散歩の途中で摘んできた」
「・・・さっき?」

思わず問い掛けると、ススキの穂が動揺したように大きく跳ねた。
一は溜息をつく。

「また屯所を抜け出していたのか?」
「・・・月に誘われて」
「言い訳とはあんたらしくない」
「言い訳じゃない、屁理屈だよ」
「・・・それならば頷ける」

実際頷いてみせると、カレンは渋い顔をしてススキを一の顔に寄せた。

「頷いちゃうんだ、そこ」
「・・・おい、カレン、くすぐるのはやめろ・・・」
「だったら早く受け取ってよ」

お礼とは到底言い難い押しつけ具合である。
頬に触れる穂がこそばゆくて、一は仕方なくススキをカレンの手から受け取った。

「受け取ったからとて、これで脱走の共犯と言う事にはならぬからな」
「・・・そんなこと一言も言ってないのに」

カレンは不貞腐れて、ぷいっと空を見上げる。
上半身を仰け反らせて、一歩間違えたら枝から転げ落ちそうな体勢だ。
内心肝を冷やす一を余所に、カレンはゆらゆらと足を揺らした。
二人の間に沈黙が下りる。

「・・・カレン」
「なぁに・・・?」
「団子は食べないのか?」
「そんな気分じゃなくなっちゃったよ」

カレンの台詞に一はぐうっと言葉を失った。
特に他意はないつもりだったが、まさかカレンから食欲を失わせてしまう程の効力があるとは。

「・・・済まぬ」
「・・・じゃあ隣に来てくれる?」

罠かと思うくらいの素早い交換条件に、一は再度溜息をつく。

「・・・枝が折れると言っている」
「大丈夫だって」
「その根拠を言ってみろ」
「んー・・・折れても受け身とって着地すれば、大丈夫?」

折れること前提じゃないか。
思わず眉間を押さえる一の脳裏に、あることがふっと掠める。

(・・・この距離ならば、届く)

ああ言えばこう言う屁理屈ばかりで、頑固かと思えば妙に素直な、くるくる表情も心も変わる、掴み所のない彼女を。

「・・・カレン、手を」
「お、登る気になったかな?」

不貞腐れたことも忘れ、笑顔で一に向かって手を差し伸べた。

繋がる手と手。

一息に引っ張り上げようと、カレンは息を吸い込む。
そしてその瞬間、逆に強く手を引っ張られた。

「ひゃっ・・・」

流石のカレンも体の釣り合いが取れず、枝の上から引きずり降ろされた。

「いたた・・・ひっどい、一君・・・」
「怪我はないか?」
「そっちこそ」

地面に折り重なって倒れ込んだ二人。

カレンのことを受けとめ損ねたわけでは、断じてない。
寧ろ彼女の体はしっかり腕の中に収まっている。
だが状況が状況で、彼女を引っ張ったのは自分なのだから、やはり原因は俺にあるのだろう。

「・・・済まぬ」
「いいよ、こうでもしないと私いつまでも降りて来ないし・・・あっ!?」

カレンが声を上げて、ぱっと体を起こした。
慌てた様子で周囲を見回す。

「お団子・・・どこ!?」
「ここだ」

カレンを抱えた手とは反対の手を上げて見せる。
・・・持っているのはカレンと一緒に落ちてきた団子の包み。
これのおかげで、一は体勢を崩したのだった。
放っておいてもよかったのだが(包みに入っているのだから、地面に落ちても形が崩れるだけだ)、脳裏に潰れた団子を悲しげに頬張るカレンの顔が浮かんでしまったのだから仕方ない。

無事な団子の包みを見て、カレンはほっと安堵した。
力が抜けて、一の体にずしりと重みが増す。
自分の身よりも団子の行く末を気にするとは、全くもってカレンらしい。

つい笑みを零すと、カレンにも伝わったようだ。
俯きがちに、照れくさそうに笑って言った。

「えぇっと・・・ありがとう?」
「・・・何がだ?」
「私とお団子、守ってくれて」
「礼には及ばん。無理矢理引っ張ったのは俺だからな」

ぽんっとカレンの手に団子の包みを握らせると、受け取った彼女は嬉しそうに笑って、よいしょと立ち上がった。
体が軽くなった一も、続いて起き上がる。

ちらっと名残惜しげに木を見上げるカレン。
しかし色々と反省した彼女は、もう木に登ることはしなかった。

「仕方ない、大人しく月見としますか」

一は苦笑しながら、地面に落ちたススキを拾い上げる。

「・・・あんたは本当に高いところが好きだな」
「うん、大好き」

振り返って、一に向かって満面の笑みを見せる。
木から目を離したのをいいことに、一はカレンの手を引いて建物に向かって歩き出した。

「何故、高いところを好む?」
「なにゆえって・・・んー・・・」

手を引かれながら、カレンは小首を傾げる。
改めて聞かれると返答に困る。

「そうだなあ・・・空しかないから、かな」

言葉を選び選び、カレンは答えた。

「見えるものが空だけだから。遮るものがない、余計なものがない」
「・・・」
「あるのは空と自分だけ。単純明快、だから好き」

カラリとした笑顔につられて、一もほんの少し目元を綻ばせる。
・・・ほんの少し、だけ。

(・・・余計なもの、か)

彼女にとって、空以外は余計なものということなのか。
それがひどく心に引っ掛かった。

カレンは一のそんな思いには気が付かない。
暢気に「好き」の理由を付け加える。

「あとはほんのすこーしだけど、地面に立ってるよりかは空が近いから」

そう言うと、一と繋いでいる手を軽く持ち上げた。

「好きなものの傍に居るって、もうそれだけで幸せでしょ?」
「・・・そうだな」

同意を得られて、カレンは満足げだ。
木に登ることはすっかり忘れ、それまでは一に引っ張られるように歩いていたのが逆転する。
彼の手を引き引き外廊下まで辿り着くと、よいしょと腰を下ろした。

「それにしても珍しいなあ、任務以外で一君がこんな強引なのは」
「あんたは言ってもきかないだろう」
「・・・そりゃそうだけど、それにしたってさ」

包みの中から団子を取り出し、ぽいっと口に放り込む。

「おいしーい・・・何かあった?」
「食べながら喋るな、行儀が悪い」

喋るなと言われたので、カレンは黙って頭を下げた。行儀が悪くてごめんなさいといった意味合いか。
素直なところは素直すぎるので、どうにも調子が狂う。

溜め息混じりに一は答えた。

「・・・特に何もない」
「あれだけ廊下を行ったり来たりしといて、よく言うよ」
「もういい、済んだことだ」
「うん?もう済んだの?」
「・・・ああ」

こうして今、隣で共に月を見上げているのだから。

短いが満ち足りた一の返事に、カレンは目を細めて笑った。
そのままごろんと床に寝転がる。

「いつの間に済んだんの?もしかしてお団子の処理に困ってたとか?」
「寝ながら食べるな。・・・まあそんなところだ」
「新八君でも叩き起こせばよかったのに」
「そこまでせずとも、あんたなら起きてるかと思ったまで」
「なんだ、私を誘いに来たのか。それならもっと早く声掛ければよかった」

墓穴を掘った一であった。
手に持ったままだったススキを取り落とし、動揺を押し隠すように努めてゆっくり拾う。

「・・・カレン、団子を食べるのなら、ちゃんと起き上がって食べろ」
「えー、嫌だよー」
「ならば没収だな」
「わっ、待って待って。まだ食べるって!」
「ならば起き・・・」
「待ってってば。もう少しこのまま」

膝の上の団子をしっかと確保して、カレンは寝転がったまま少しだけ首を起こした。

「いーい景色なんだから。もう少し堪能させて?」
「寝転がったままでは、空は遠いぞ」
「いいんだよ、今は『これ』がいい」

意味深なカレンの返答に一は目を瞬かせる。
はて、『これ』とは何だろう。
首を傾げた彼に、カレンは言った。

「空と月と、一君。ついでにススキとお団子。んー・・・いい眺め、最高のお月見」
「・・・俺は邪魔ではないのか?」
「なんで?」
「・・・先刻言っていただろう、空との間に余計なものはいらないと」
「一君は余計じゃないもの」
「・・・」

カレンはひょっと体を起こした。
見事な腹筋である。
いや、そんなことはどうでもいい。

彼女の一言に大きく揺さぶられる一。
カレンは続ける。

「一君のことは空と同じくらい好きだから、一君だけ見ていたい時さえあるよ?」

恥ずかしい言葉をさらっと言うものだ。
気負い過ぎて、月見に誘う事が出来なかった自分が馬鹿らしくなるくらい。

カレンの髪が一の肩に触れた。
涼やかな風に吹かれて、ススキがさわさわと二人の間に音を鳴らす。

「こうやって並んで、同じものを眺めるのも好き」
「・・・俺もだ」

寄りそう体からぬくみが伝わる。

途方もなく彼方の見えない夜の空。
浮かぶ星屑ほどに、ちっぽけな自分だけれど。

君がいれば、それだけで満ち足りる。
空との距離が変わらないのと同じように、君との距離もずっとこのままで。

そんな小さな願いを、優しい月明かり浴びながら。
静かに祈る・・・。


空と月と、君と
届く、届かない



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