人形の涙
「え?」

桜舞う出会いの季節、私は五条先輩の言葉が飲み込めずに、そのまま疑問符を吐き出した。そんな私を見て、珍しく表情を歪める先輩が『やっぱ知らなかったか』と言葉をつづける。

「七海、アイツ一般企業に就職した。」
「え?」

待って、五条先輩。私、そんなこと一言も七海君から聞いてない。疑問符に続いて、カラカラの喉から絞り出した戸惑い達。

「何も言わずに黙っていくなんてさ。ほんっと、みんな勝手だよな。」

私から目を逸らして、そんな言葉を投げかけてくる五条先輩に『らしくないですよ』なんて、軽口を叩く余裕すらない。五条先輩だって、笑えないって分かってるからこその発言だったんだろうなと理解できたのは、それから大分経った頃。


高専での生活を経て、卒業して、私にとって春と夏は別れの季節になった。

幼い頃に偶々拾った人形が呪具で、そのせいで呪術界に入らざるを得なかった。生来の物ではない力を制御できなかった幼少期もあり、呪いから、人との関わりから離れるように暮らしていた私にとって、高専で出会った同級生の灰原君と七海君が、かけがえのない人達になるのに時間はかからなかった。

『お前ってどっちと付き合ってんの?』

ある日、先輩にそう聞かれるくらいに、私達3人の距離はおかしかったらしい。どちらとも付き合ってないと言えば、あれで!?と驚き慄く先輩方。首を傾げると、何処からともなくやってきた灰原君に耳を塞がれ、先輩と私を遮るように体を割り込ませた七海君のせいで彼らのその後のやり取りは分からない。ただ、硝子先輩から『愛されてんね。』と冷やかされた。

『日向子は知らなくっていいよ!』
『ええ、日向子は知らなくていい。』

大好きな2人からそう言われてしまえば、私にどうすることもできなかった。何より、初めて触れ合う友情を、その温かさを失いたくなかった。よく言えば現状維持、悪く言えば見ないふり。

そんな私達の関係が変わったのは2年生の夏。3人で向かった討伐任務で、灰原君が死んだ。何てことない2級呪霊の討伐の筈だったのに。帳が降ろされて、一番敏感な七海君が違和感に気が付いた時にはもう遅かった。信仰によって膨れ上がった呪力が私に向けられていて、咄嗟に反応できず逃げ遅れた私を庇った灰原君。目の前に飛び散る鮮血、倒れ込む灰原君が異様に軽いこと。視界が真っ暗になりそうな中、私の名前を叫ぶ七海君の声が聞こえた。私達は、死に物狂いで灰原君を抱えて逃げた。高専の安置室で、漸く彼の体が半分ないことに気が付いて涙が溢れた。

「七海君の馬鹿。あの時は言ってくれたじゃない。」

――日向子!逃げますよ!――

あの日以降、七海君が遠くを見ていることが増えた。でも、私は何も聞かなかった。だって、私達の距離は変わらなかったから。いや、喪失感を埋めようと、前よりも近くなっていって。何度目かの性行為の後、七海君から『貴女は居なくならないでください。』と言われて、私はなんて答えたっけ?そうだ、一言『頑張る』それしか返せなかった。

そして今日。任務漬けで卒業式もあったもんじゃない、卒業証書だけ五条先輩から手渡された門出の日に、七海君は呪術界から、私の前から消えた。

「ふははっ、ねぇ灰原君。私達さ、何処で間違えたのかな?」

入学式後に撮影した記念写真に写る彼は、固い笑みを浮かべるばかりで何も返してはくれず。私の世界はまた輝きを無くした。


「日向子さ、笑わなくなったよね。」

あれから数年、一人称を『僕』、言葉遣いだってマイルドに変えた五条先輩は、変わらず私と交流を持っている奇特な人。

「五条先輩こそ。」
「僕は良いんだよ。僕は。てか、お前否定しないんだ。」
「否定する理由がないです。」
「自覚済みってこと。なお悪いわ。」
「お気になさらず。」
「相変わらずつれないねぇ。」
「他所をあたってください。」

次の任務の事前資料に目を通しながら、五条先輩の言葉をあしらっていると、急に影が差す。立ち上がった先輩が、腰をかがめて覗き込んで来ていた。

「笑えよ。お前は人形じゃないんだ。」

それだけ言って、颯爽と踵を返していく。周囲から突き刺さる視線を遮るように、資料に見入る。

『人形の人形遣い』

世界から輝きが失われて、私は笑う事ができなくなった。無表情に呪具である人形を扱う様から、いつしか同僚からそう呼ばれるように。加えて当代最強と名高い『五条悟』と、反転術式を他人に扱える『家入硝子』に、直下の後輩と言うだけで目を掛けられているとやっかみを受けることも増えた。だけど虚無になった心は、ひそひそと聞こえてくる陰口に、これ以上呪いを増やさないで欲しいとしか感じない。

『こんな私を、灰原君や七海君はどう思うのだろう?』

唯一浮かぶ疑問。これだけが私がまだ人だと、心があるのだと思わせてくれる。

「ふぅ。」

始末できた呪霊を見下ろし一息。どれだけ任務を重ねて、呪霊と相対しても、この瞬間に慣れることはない。ふと、帳の降ろされた路地から空を見上げた。帳の向こう側には、綺麗な月でも浮かんでいるのだろうか?

「日向子!帰るよ!」
「何ぼさっとしてるんです、日向子。」

懐かしい声が聞こえた。慌てて視線を向けた路地の出口に佇む2つの影に、はくりと息を飲む。

「中森サン、こっち終わ、」
「猪野君?中森さんに何か?」

そこには大好きな2人ではなく、こちらを凝視する同行していた呪術師と補助監督。

「何にも。こっちも終わりました。」

思った以上にぶっきら棒になった言葉を残して、早々に帰らせてもらう。あのままあの場所にいる気分じゃなかった。

「馬鹿だよね。そんなことある筈ないのに。」

自宅のベランダで1人グラスを傾ける。都会の星さえ見えない夜空でも、月があればよかった。彼の、七海君の髪のようだと思って、グッと酒を煽る。カッと喉を焼くアルコールのせいか、ジクリと胸が痛んだ。

「もう忘れてる。」

もうすぐ5年目に入ろうとしているというのに、何て女々しい。いくら優しい七海君と言えど、こんな腐った世界なんてもう綺麗さっぱり忘れ去ったはず。機嫌が悪そうな表情でも、いつだってそっと心配してくれた彼の事だ。忘れるのにだって相当苦労するだろう。でも、望んだのは彼自身。ならば、きっと厳重に、頑丈に、堅牢に裡のどこかにしまって。もう私達の笑いあった日も、夢にさえ見ない事だろう。

ねぇ、七海君。いつだったか灰原君と2人して沢山の花を君のバッグに乗せたよね。今もね、あの花を見ると1人で集めちゃうんだ。もうそれを乗せられる君も、一緒にやってくれる彼もいないのにね。今はね、何処からか五条先輩が現れて、『僕を飾ってもいいんだよ』なんて言ってくるの。ははっ、バカか私は。

「ねぇ、君も酒に逃げる日なんてある?」

七海君もどこかで傷付いてる日があるかもしれない。なんて感傷は強いアルコールと共に飲み干した。あぁ、本当に人形になってしまいたい。


「…お久しぶりです。日向子。」
「え?」

五条先輩に呼び出されて、指定された場所に行けば見慣れない男性の姿だけ。この業界じゃ珍しい明るいスーツを着た男性に先輩の居所を訪ねようとして、面食らう。数年ぶりに表情筋が仕事をしたと言っても過言じゃない。バツが悪そうに私の名を呼んだのは、七海君だった。五条先輩と七海君、嫌でも察してしまう。

「…何で、帰ってきちゃったの。」
「すみませんでした。」

質問したつもりではなかったが、帰ってきた謝罪に息が詰まった。

「それは、何への謝罪?」
「全て、です。」
「すべて?」
「えぇ、日向子に何も言わず逃げたこと。」
「っ!」
「一度も連絡を取らなかったこと。そのくせ戻ってきたこと。何より。何より、この4年もの間、日向子だけを、このクソな世界に1人にしてしまった。」

酒も五条先輩の激甘飲料もない場所で、誤魔化しようのない痛みが胸を衝く。忘れたくて、見えないふりをして、閉ざしたふりをして。あの頃から成長しない私なんかに、何て優しい人なんだろう。フーッと深く息を吐く七海君は固まる私を放置して続ける。

「言えなかったんです。日向子に、一緒に逃げましょうと。」
「私が、断ると思ったの?」
「いいえ、その可能性はありましたが、その時は無理矢理にでも連れて行こうと思っていました。」
「なら、なんで…?」
「貴女の心が、思い出を愛していたから。」
「っ!」
「いいえ、それは言い訳ですね。私が臆病だったんですよ。体だけ攫っても、心が伴わないのではなんて、一丁前に悩んで。その結果、日向子を人形などと。」

苦虫を潰したような表情になった七海君がクソっと呟くと、私は有無を言わさぬ力でその腕の中に抱き込まれた。突然のことに驚いたが、スンと鼻孔を擽る香水の奥に香る懐かしい物を感じて、胸が詰まる。

「ば、か、じゃ、ないの?」
「ええ、そうですね。昔から日向子に関しては、バカの自覚があるんです。」
「なに、それ。」
「昔も今も。離れている時も、日向子の事を考えない日はなかった。」

痛い、痛い、胸が痛い。熱くて、じくじくと疼いている。

「ねぇ、七海君。」
「どうかしましたか?」
「私ね、無表情で、人形、なんだって。」
「日向子が人形?その方々は目が腐っているんじゃないですか?」
「え?」
「だって、」

貴女の涙はこんなに美しい。――

そっと武骨な指が目尻を拭う。視界の端がキラリと輝いた。


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