銀色の長い髪の毛を揺らしながら、道幅の狭い路地を細い少女が走っていた。高いビルに挟まれたそこは太陽の光を寄せ付けない。もつれそうになる足をなんとか動かしながら、疲れた体に鞭を打ち、逃げる。よくわからない何かから、必死に。
少女の名を石田三成といった。キリッとした目に、スッと伸びた鼻、所謂美人に分類されるその顔は、疲労の為に歪んでいる。
先程までチャラチャラした後輩の島左近と街を歩いていた彼女がこんな悪夢に巻き込まれたのは、人ばかりが交差する街で不意に名を呼ばれた瞬間だった。頭に直接響いてきたその声は三成の視線を後方へと導かせ、息を飲み込ませる。
窓が縦に並ぶビルに張り付くようにそこに在る何か。蜘蛛のような体に足が十本生えている黒く大きなそれ。ぷっくりと膨れた腹部に一本の白い線が現れたかと思うと、その線がじわりと広がりひとつの目が形成された。
それを見て逃げろと騒ぐは心の警報機。
三成様と伸ばされた左近の手を振り払い、勢いよく足を動かす。
黒いそれはついてきた。どこまでも三成の後を追ってきた。どうやら他の人間には興味がないらしい。そして三成以外の人間の目に、それは映っていないらしい。
三成は焦った。恐怖を感じた。あの大きな巨体が入り込めないであろう狭い路地に進路を変えたが、しかしそれはついてきていた。ぴったりと三成の後ろにいた。喉が乾き咳き込みそうになるも、咳き込んでいる暇なんてない。

もう、何分走り続けているのだろうか。
時間感覚なんてものは今の三成の中に存在していなかった。疲労だけが溜まっていく状況化、ふらりと曲がった道は行き止まり。まずいと思い振り返るも、すでに黒が目の前にいた。
「…!」
焦らすようにじりじり近づいてくるそれ。大きな目が三成をとらえて離さず、逃げるに逃げられない状態に身を震わせる。ゆっくりと後退れば、その分の距離をすぐに埋められた。
三成の背がひんやりとした壁に当たったのを合図に、黒の足がボコボコと膨らんだ。十本の足にたくさん現れたこぶがギチギチと音をたて、人間の口のようなものを作り上げた。鋭い歯、緑色の舌。三成は短く悲鳴を上げた。
食われる、食われる
それだけ思いながら、口を近づけてくる黒を見つめる。未だ整わない息が、金縛りに合ったかのように動かない足が憎らしい。ギイィと妙な声を上げ、ひとつの口をがっぱりと開いた黒。
歯が目の前に迫った、その時。
「―――っ?!」
ドンッと派手な音をたてて、黒の巨体が崩れた。よく見ればコンクリートの上に大きな白い玉が転がっていて、それが黒に攻撃したのだと分かる。
「まさか三成の所に現れるとは。ほんに予想外よの」
聞きなれた声は三成のすぐ隣から発せられていた。今まで誰もいなかった場所、そこにひとりの男が立っている。
顔の半分をマスクで覆い、長袖長ズボンの男。彼の名を大谷吉継という。指先まで巻かれた包帯の上、先程と同じ玉が乗せられていることに疑問を感じている余裕はない。
「刑部!貴様がなぜここに?!」
「それの気配がしたからに決まっておろ」
「それとはあれか?!あの気持ち悪い変なヤツのことか?!あれは一体、ッ!」
「ヒヒッ、余所見をしていると食われるぞ」
再び立ち上がった黒が、大声をあげながら二人に近づいてくる。先程、吉継が放った攻撃に腹をたてているらしい。
「刑部!逃げるぞ!」
「いや、待て三成。あれを主が倒してみよ」
「な、なにを言ってる!私があれと戦えるわけ…!」
言葉の途中、吉継が三成を自らの方へと抱き寄せた。突然のことに目を白黒させていた三成だが、背後でゴキリと嫌な音がして体を強張らせる。
見れば、吉継の大玉により黒の足が一本ねじまがっていた。三成に仕掛けてきた黒の攻撃を防ぎ、吉継が守ってくれたらしい。
「ほれ、早く倒さんと我が殺してしまうぞ」
「倒せと言われてもアイツの正体も分からんのだぞ!無理に決まっている!」
「あやつは不幸の塊よ。不幸のな」
「…不幸?」
「あれを幸福で出来た武器で浄化してやるのよ」
宙に浮いているいくつかの大玉を、三成はこの時はじめて視界にいれた。真っ白で大きなそれは、自ら温かい光を発し、輝いているようにも見える。
この数珠こそが、大谷吉継の武器。
しかしそれを教えられたからといって、三成が全てを把握できる訳ではなかった。幸福だとか不幸だとか、三成の頭は混乱したまま。
けれど吉継は本気で三成に戦えと言っているようで、傍観の体制に入った。この最悪な状況を打破するには、やはり三成が戦うしかないのだろう。
(幸福から作られる武器?)
考えてもピンとこないのは、あまりに現実味がないからだ。
分からないながらも教わったことを確認しようと頭を働かせている最中、ゆっくりと黒が九本の足で起き上がる。吉継の数珠によって妙な方向に折れてしまった足は地についてすらいない。その使い物にならなくなった体の一部に、黒は他の足に形成した気味の悪い口を近づけた。
直後に響く、嫌な音。
バキバキと耳に痛い音を発しながら、黒は折れた足を食していた。そこから滴る緑色の液体は、黒の体液なのだろう。
異臭が充満する路地。敵の足が一本減った事実すら受け止められないでいる三成の耳に、今度はボコボコと、この世のものとは思えない音が届く。
先程まで足があった場所、その付け根に大きな黒いこぶが出現したのだ。そのこぶは勢いよく広がっていく。
やがて形成された、あまりにも歪で太い足。がぱっと開いた口は、その数を増している。歯も大きく鋭く成長していた。
「ほう、身体の再生までもを力とするか」
吉継は楽しげに笑う。
「三成よ、武器を出し損じている間に主がやられてしまうぞ。急げ急げ」
ずっしりと太くなった足が前に出る。ビクリと肩を震わせながらも、三成は後退りはしなかった。
一歩一歩近づいてくる黒は、やはり怒りを宿しているらしい。腹部にある目が、まばたきのひとつもせずに、ただただ三成を見つめている。吉継の攻撃を受けた後でさえ、三成だけを。
(こいつは、最初から私だけが狙いなのか…?)
黒が、すばやく動く。
(何故、私を………?)
唾液をまきちらしながら迫ってきた黒は、三成の近くでさらに口を広げた。がぱっと口角が割れ、体液が飛び散る。
それを見て、三成は右手を翳した。黒へ向けて真っ直ぐに、無意識に。
黒が三成の右腕を噛みきろうとしたその時、どこからか突然風が舞い上がる。腰まで伸ばされた銀髪と短いスカートが揺れた。
不意に、右の指先に固く冷たい、それでもどこか温かなものが触れ三成はハッとする。反射的にそれを握りしめると、辺りは光に包まれた。
(なん、だ……?)
不思議な感覚。何かとてつもなく優しいものが全身に触れているような、包み込まれているようなそんな感覚。温かな快楽にぼうっとしていた三成だが、突然右太ももに違和感を感じた。痛いような、擽られているような、強く叩かれているよな、激しくまさぐられているような違和感。思わず眉を寄せると同時に、宙に浮いているような感覚が消える。
足が地につく。光が消える。
その後、三成は右手に握りしめた刀を黒の方へと向けた。黒が大きな目にその姿を捉える。
「青白き月の下、すべてを斬滅する許可を私に…!ここに月光天使(ムーンライトエンジェル)降臨!」
ぶわりと紫色の花びらが辺りに舞う。その直後、ハッと我に返った三成が大いにあわてた。
「わ、私は一体なにを、何を言っているんだ?!」
自身の台詞に訳がわからず頭が混乱する。しかし混乱の種はそれだけではなかった。
耳の上、薄紫色のリボンで結われた髪、ツインテール。全体的に紫と白で統一されたフリフリした服。腕は露出され、手首には髪同様リボンが巻かれている。
靴は高いヒールで、短いながらも可愛らしいスカートからはスラッとした足が伸びていた。おまけに手には刀だ。慌てない訳がない。
「なっなんだこれは!私は夢でも見ているのか?!」
「これは現よ。落ち着け三成」
三成の背後、傍観していた吉継が口を開く。
「その刀は幸福で作られた主の武器よ」
「!」
「その格好は主が天使だという証。仕えるは豊臣か。三成にピッタリよの、ヒヒッ」
笑う吉継は、やはり楽しげだ。
「天使?!豊臣?!一体なんの話をしている刑部!」
「話は後、後」
ほれ三成、不幸が迫ってくるぞ。
妙な声を上げながら、黒が三成に攻撃を仕掛けてくる。ガチリと噛み合わされた歯を何とか避けると、黒の歯が勢いよく飛び散った。それほどの威力がある攻撃なのだ。
(気のせいか…?体が軽い………?)
砕けた歯を再生する黒を眺めながら、三成は思った。これが三成自身の力なのか、天使と呼ばれるものに覚醒したからなのかは分からない。
ただ、手に持った刀の使い方は理解できているし、黒の体再生中に隙が出来ることを知った。数多ある口の中で、たったひとつでしか攻撃してこないところを見ると、他の口はダミーなのだろう。
(折れた足を食べた口は自分の体破壊用…たとえ私の考えが外れていたとしても、この身体能力があるなら、)
いける。
三成は理解しがたい状況下で、それだけを確信した。歯を再生し終え、再び向かってきた黒の攻撃を避ける。ガチリと音がしたが歯の破片がいくらか飛び散っただけで、再生を行う程のダメージはなかった。
黒の再生は、その場所の強化へと繋がる。
それを頭のどこかで理解していた三成は、次の行動に出ていた。黒の、強化されているもの以外の足を、物凄い早さで切り刻んだのである。噴き出した体液で路地が緑に染まった。大きな音をたてて、黒が崩れ落ちる。
「ほう」
吉継が感嘆の声を漏らした。
それを耳に入れもせず、三成は再び地を蹴る。九本の足を再生するため動きを止めた黒に向け、切っ先を向けた。腹部の大きな目を狙う。未だじっと見つめてくる目に刀を差し入れた。
ぐぬっと、嫌な感触が、音が、三成を襲う。今まで普通の人間、しかも女として生きてきた三成にとって、それはあまりにも残酷で気味の悪い現実だった。

「この世界には不幸を幸福で浄化できる選ばれた人間が存在する。その中の特に優れた力を持つ…所謂神の力を託された女性のことを天使というんだ。天使はあまりに力が強すぎるから、神は地上に五人しかそう呼ばれる人間を作らなかった。その五人のうちのひとり、それが三成くんだったというわけだ」
とある大きな家の中。三成はソファに座りながら、ある人物の話を聞いていた。
ふわふわと白い癖毛を揺らし、笑みを作りながら口を動かすは竹中半兵衛である。その隣に位置する大きな椅子には、三成が尊敬してやまない人物、豊臣秀吉が腰かけていた。
「天使は不幸を浄化する。といっても不幸を形作っている――いわば不幸の心臓部、"核"まで取り除ける訳じゃないんだ。核を確実に破壊しなければ不幸はまたこの世に害を及ぼしてしまうからね、確実な消滅が必要なんだけど、核は天使の力では浄化できない。……核を破壊するためには、神から選ばれた十人の男の力が必要なんだ」
半兵衛が一度言葉をきり、隣にいる大男秀吉の肩に細い手をのせた。
「核を破壊することができる力を持った十人の男、その中のひとりが秀吉だ。三成くんの太ももに現れた印は豊臣の証、つまり君は秀吉と協力関係にあるということだから、秀吉のために天使として働いてくれたら嬉しいな」
三成の、今は制服に包まれた姿を見ながら、半兵衛が言う。
三成が光に包まれた際に感じた右太ももへの違和感は、そこへ五三の桐を浮かび上がらせていた。それが豊臣の証。
「私が、豊臣の天使………?」
未だに受け入れられない状況に、三成はぽつりと吐き出した。



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