今日の活動を終えて部員みんなが撤退した部室で部誌をつけながらふと窓の外に目をやると、いつの間にやら空がこの部屋からはあんまり見ることのない深さの濃紺に染まっていた。この男子バスケ部のマネージャーになってからというもの明るいうちに下校する日の方が少ないくらいだけれど、それにしたって今日は練習が長引いて遅くなってしまった。このあとなにか急ぐ用事があるわけでもないのに、いつもより濃い暗闇に少し焦る。これは多分人間としての本能みたいなものだ。早く帰らないと、と思って書き終えた部誌を閉じたときだった。

「お。灯りが点いてるから誰かと思えば…なんだ苗字、まだ残ってたのか」
「キャ…じむら先輩、お疲れ様です」

無造作に開けられたドアから顔を覗かせたのはさっきミーティングで顔を合わせたばかりの虹村先輩だった。監督と話があったみたいだから、他の部員を帰して先輩だけ単独でこの時間まで残っているんだろう。と、今は理解できたけれど、先輩が監督に呼ばれていたのをすっかり忘れていたから一瞬驚いた。
キャプテン、と呼びかけそうになって慌てて唇のかたちを変える。もうこの人は主将じゃない。その役目は私と同学年にしてそれを疑いたくなるほどに秀でた赤司くんに引き継がれた。もう一ヶ月前のことになる。それでも私が虹村先輩をキャプテンと呼びそうになるのは単に慣れの問題だけではなくてこれまでその呼称に部員としての尊敬以外に私的な憧憬をこめてきたからだということは自覚している。だから、「きゃじむらって誰だよ」と軽快に笑う先輩に対して少しだけ後ろめたさをおぼえてしまう。この人はきっとそんなことを気にかけはしないだろうに。

「オメーもお疲れ。つか他のマネージャーたちはどうした?いつも一緒に帰ってなかったか」
「今日は私が部誌と戸締まりの担当なので先に帰ってもらいました。こんな時間だし、待っててもらうのは悪いので」

本当に申し訳ないからと先に下校するよう促す私に「気をつけてね!」と再三繰り返しながら渋々帰っていったさつきちゃんたちの姿を思い浮かべながら答えると、先輩の片眉が大きくつり上がった。ハァ?との疑問のかたちをとった実質反感を示す声つきで、しまったと悟ってももう遅い。

「バカか、そこは申し訳なくてもなんでも待たせとけよ!一人で帰んのには危ねーくらい外が暗いの見えただろ?気持ちはわからなくはないが遠慮と安全なんて秤にかけるもんでもねー」
「す、すみません」

口調は厳しいものの、今まで部内でトップとしてやってきた責任感からくるのか心配してくれての言葉だとわかっているので素直に頭を下げる。というか、例えただ先輩から後輩への気遣いに過ぎないとしたってこう気にかけてもらえるだけでにやけてしまいそうなんだけどもさすがにそれはまずい。ああ好きだなあなんて浸るところじゃないんだ、耐えろ私の表情筋。
真面目な顔をして黙りこくる私をどう思ったか、ひとつため息を落として先輩は問いかけてきた。

「反省したか?」
「はい」
「じゃあ俺の言葉はよくよく理解して納得したな?」
「はい」
「よしそんじゃ送ってく」
「はい…はい?」

流れで頷きかけて、脳が遅れてストップをかけた。おくる?と耳に飛び込んできた言葉を未だ受け入れきれずにいる私に構わず、先輩は部誌を机から取り上げてから「さー帰るぞー」と室内の窓の鍵を確認して回っている。いや、いやいやいや!

「せ、先輩!なにもわざわざ送ってもらうなんてそんな、」
「俺さっき言ったよな?遠慮と安全で迷うなってよ。で、苗字もそれに頷いた。だから俺がオメーを送ってく、以上。これで一人で帰らせてなんかあったら寝覚め悪くてたまんねーし」

堂々と言われると確かに正論だという気になってくるけど、友だちを帰して先輩に送ってもらったんじゃあ意味がないというか本末転倒というか、とにかく居たたまれない。と、どうにか辞退するべく顔を上げればそこに待っていたのは、先輩が灰崎くんを締め上げたときなどによく見る類の笑顔だった。要するに逆らう余地がない。

「先輩命令にするか?」

だめだ、もうどうにもならない。はじめから私が虹村先輩の発言を覆そうだなんて無謀だった。
もちろん本音を言えば、これはとてもありがたいし嬉しい心遣いだ。でもこんなふうに優しくしてもらうとなにか余計なことを期待してしまいそうになるから、そういう戒めもあって断ろうとしたんだけれど。ここまできたら降って湧いた幸運として受け取ろう。

「それじゃ、ありがたくお言葉に甘えます」

お願いします、と下げた頭にたしっとごく軽く部誌で触れてきた先輩がちいさく笑って言うことには。

「かわいげのある後輩は好きだ」

それがかわいげとは程遠いキセキのみんなと比較してのものに過ぎないことはよくわかっている。わかっているけどそれでも喜んでしまうこの心をどうしてくれようか。



校門をくぐって学校の敷地を出ると、あたりは普段の下校時間よりずっと人の姿がまばらだった。加えて街灯の数もそう多くないからどうにも心もとない。先輩やさつきちゃんたちの心配はけして大げさじゃなかったなとしみじみ思う。

ここまで来たらすぐですから、と私が言って家の近くの交差点で足を止めるまで、今までにないくらい先輩と会話を交わした。その内容は授業のことだったり趣味のことだったりしたけれど、やっぱり大半は部活についてだった。先輩がバスケの話をするとき私はいつも彼の瞳になにかとても大きなものをみる心地になる。先輩は赤司くんに主将の立場を譲る際、自分は熱くなりやすいから性分とは違うんだというようなことを言ったと聞いたけど、それでもやっぱりこの人はきっととても大きなものを背負ってここまできたんだろう。だから私は必死になって目で追いかけて。
そんなことに思いを巡らせているうちに、送ってもらったお礼を言っていた口は思わぬことを紡ぎ出した。

「あ、あの!」
「あ?」
「今日のこのご恩は部活で目一杯働いて返しますから、だからあの、プレイで役には立てませんけど他のことは任せてください!」

言い切ってからふと我に返る。なんだか今自分はものすごく当たり前のことを言ったような。つい一人盛り上がって勢い込んで宣言してしまったけれど羞恥心の襲来にたちまち耐え難くなる。おそるおそる虹村先輩をうかがうと、きょとんとして、それから。

「ご恩って…はは、そんな大層なことでもねーのに律儀なこった。つーかぶっちゃけ役得だったし」
「え?」
「あーなんでもね。ま、あれだ」

愉快そうに笑ったのちぼそっと早口でまくし立てたと思ったら。ぽん、と慣れない重みが頭に乗った。それが先輩の手だ、と認識すると同時にわしゃわしゃと髪をかき回される。

「頑張ってくれな。頼りにしてる」

手つきこそ豪快だけれど注がれる眼差しが思いがけず優しくてまいってしまう。単純に先輩愛だ、と自分を納得させようとしても、今のこの状況やさっきの役得という言葉、更にはこうして送ってくれたことまで、自分の都合のいいように解釈して拾い上げてしまいそうになる。もしかしたら、なんて望みを覗かせるのはお門違いだと思うのにやめられない。それが我ながらおかしくて、でも触れられた温もりが恋しくて、ついため息が漏れた。
するとそれをどう受け取ったのか、ふいに頭を撫でる動作を止めた先輩の手からじわりと困惑もしくは焦りみたいなものが伝わってくる。

「あー…もしかしてこれってセクハラ…に、なるのか?」
「えっ」

私が何も言わずに俯くから嫌がっていると思わせてしまったらしい。それは不本意極まりない思い違いだったので全力で否定しにかかったのだけど、それはそれでまずかったと気づくのは肝心な部分を全て口にしたあとだ。

「いえっセクハラっていうのは相手が不快に思った場合適用されるべきで、私は嬉しかったので断じて違い、…ます…」

今度は言い切るまでもない、先輩が目を見開いたからすぐに自分がなにを言っているのか理解した。全身から血が引く音がして硬直していると、ふと先輩の手が頭から離れてなにか迷うように顔の横あたりをさまよう。でも結局他のどこにも触れることなく、再びぼすっと頭に着地した。そして最初頭を撫でられたときの私とよく似たため息が降ってくる。

「言っちまいてぇなあ…」

なにを、と聞いてもいいのだろうか。性懲りもなく期待をもって一歩踏み出すことが、許される?そんな自問が頭の中でぐるぐる回る。
その迷いは結局、私より先に口を開いた先輩が打ち砕いてしまうのだけれど。


title:まほら
剩bさんへ。リクエストありがとうございました!
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