From sentimental realist

宝物を扱うかのようにそっと触れてきたその手が、燃えるように熱かったのを酷く覚えている。

「ウイリアム」

蕩けるようにやさしく、されど激しさを秘めたその熱い指先。その熱に浮かされてやつに触れられるのを厭わなくなったのはいつからだろう。いつからだろう、ともに耳元で囁かれる甘やかな響きも、自分だけに向けられたその色を愛おしいと思うようになったのは。
はじめはうっとおしくて堪らなくて叩き落としてばかりだったのに、気がつけば自分の日常にするりと溶け込みなくてはならないものになっていた。液体のようにじわりじわりと心の端から染み渡り、気がついたときには心に潜んだ孤独の寂しさはそれで満たされていて。それに気付いた頃にはもう遅く、しっかりと絡みついて取り除くことなど出来なくなっていた。甘く甘くとろりとまとわりつくそれは蜜か、はたまた毒か。
無理やり排除しようとして無理やり振り払えば感じるのは酷い寂しさ、喪失感。一方的な言葉で傷つけて追い払って騒がしいやつがいなくなって清々したと強がっていたのは出会ったばかりの頃、もう何年も昔の話だ。

「ウイリアム、」

その声と表情に喜び怒り哀しみ楽しさ様々な感情を豊かに乗せて、天邪鬼な自分の名前を呼んで何度も何度も鼓膜を揺らすたびに共に自分の心が揺さぶられると知ったとき、俺は気がついたんだ。ああ、自分はこの悪魔に心を奪われたのだ、と。自称リアリストが聞いて呆れる。
だけど、確かにあれは人の形を持った原子で、共に笑い食べ眠り夜を過ごし、俺の名を呼んで熱い指先で俺に触れた。そして長い時を共に過ごしたそれは、幻聴や幻覚と呼ぶにはあまりにもリアルで。記憶も昔共に戦った時についた傷跡も勢い余って爪を立てられた時の背中の小さな傷も(あいつはその時死ぬほど謝った)耳に焼け付く声も、すべてこの身体が覚えている現実。

けれども、もう俺以外誰も覚えていないのだ。

歳を重ねる俺と、パブリックスクールで出会った頃と変わらない若さを保つあいつ。周囲に気づかれるのを恐れて一所に長いこと留まるとはせず住まいを転々と移し、屋敷を取り戻してからは人がいない時だけひっそりと交わされる逢瀬。
だけど、どこに目と耳があるかわからない立場に上り詰めていく中で、その噂はまことしやかに囁かれ始めたのだ。ウイリアム=トワイニングは悪魔を飼っている、と。
無神論者の俺には関係ない話でも、世間様からすればもちろん悪魔はタブーの対象だ。根拠がない、何も知らないとシラを切っていたが、それがいよいよもって持たなくなってきて追い込まれて酷く苛立っていたある日、あいつはこう切り出したのだ。俺がなんとかしてやろうか、と。そして、その代わりに自分を代理王に選べ、と。
ルシファーの目覚めによって代理王争いが一時休戦してからもう何年もこの話は持ち出さなかったのにどういうことだと詰め寄れば、あいつは口元を歪めて笑った。

「最初からこの機を狙っていたのさ、ウイリアム。お前が自分自身じゃどうにも出来ないようなピンチに陥るのをな」

二人で長い時を過ごしたこの執務室にハハハと響く嘲笑にガツンと頭を殴られたようだった。息が苦しくてはくはくと開け閉めする口からは震えた空気しか出てこない。

「オレは悪魔だ。人の心に付け入って内側から侵食する甘い甘い毒なのさ。信用するなんて本当に馬鹿だな」

かつて熱を持って自分を呼んだ愛しい声が今までにない冷たい響きで鼓膜を揺さぶる。握り締めた拳、噛み締めた唇、苦しくて苦しくて目頭が熱くなって視界が歪む。
足元に落とした視界にコツリと音を鳴らして踏み込んできた爪先と同時にするりと頬を撫でた手袋越しのその手が酷く冷たくて、顔も上げずに思わず払い落とした。だから見落としたのだ、冷静に顔を見ていれば長い時を共に過ごした俺が見落とすはずのなかった些細な表情を。

「裏切り者!勝手にしろ!お前なんかもう顔も見たくない、出て行け!」

そう怒鳴りつけて勢いよく翻したその背中は、ふわりと優しく包み込まれた。
そして一瞬髪越しに押し当てられた唇。それから伝わる熱はいつもと変わらない熱さで。

「…ああ、勝手にする」

冷たさを装ったその声に滲むのはもっとあたたかな、

「…ッ、ダン…」

振り返った刹那、泣き出しそうな笑みをくしゃりと歪ませながら俺以外の人間の記憶と共に、あいつは消えた。



カーテンの隙間から差し込む月明かりは秋の空気を介して冷たさをはらむ。こんな夜はどうにも昔のことを思い出してしまっていけない。寝返りを打って一人寝には広過ぎる大きなベッドで冷たいシーツを掻き抱くとその冷たさがスッと隙間から紛れ込んだ。

「俺はやっぱり馬鹿なのかもしれないな」

どうせなら俺の記憶も消してくれればよかったのにとそう何度思うのに、それでもやっぱりこの胸に刻まれた俺だけの暖かな記憶は誰にも渡したくなくて。我ながら女々しいと思いながらもずっとお前だけを想い続けている。
涙を流す理由も、見せる相手も、ずっと、

「お前だけだなんだ」

意地悪で愛しい俺の悪魔。

頬を伝う涙がじわりじわりとシーツに染み込んでは冷えていく。
今年も冬がやってくる。
何度涙を零しても冷えた爪先を暖めてくれるあいつは、もういない。




From sentimental realist
20131019