「……ななこか」
どんなに足音を忍ばせても、絶対に気付かれてしまう。それは彼の耳がとても良いから、と言えばそうなのだけれど、そうやって周りに意識を向けて気を張っている証拠のようにも見える。
「頑張ってそーっと近付いたんですけど。どうしてわかっちゃうんですか」
「お前が騒がしいからだ」
そんなことないです、と返したのだけれど静かかと言われると確かにちょっぴり自信はない。そもそもこの館の中が静かすぎるのがいけないと思う。
「……っていうか、暗いですよねここ。歩きにくい」
「……そうか」
おれには関係ない話だ、とンドゥールさんは立ち上がり、コン、と杖を鳴らした。そうして私に手招きをする。
「DIOさまのところか? ……連れて行ってやろう」
「いえ、私は……貴方に会いに」
私がそう返せば彼は驚いたような顔で「おれに?」と言った。その側に歩み寄ると、彼は私が見えてでもいるみたいにこちらを向く。
「……もうすぐ、行ってしまうと聞いたので」
「あぁ、明日にでも出発するつもりだ」
「……そう、ですか」
私の声に落胆が混じっていることに気付いたらしいンドゥールさんは、「少し話すか」とまたその場に腰を下ろした。硬い床に座っていて痛くないのだろうかと以前聞いたら、その方が周りの音がわかるからだと言われた。私たちがドアに向いて座るようなものらしい。
「……ななこ」
「はい」
不意に呼ばれて返事をすれば、座りなさいとクッションを出された。どこにあったのだろうかと思わず笑みを零しながら、差し向けられたクッションの上に腰を下ろす。
「……俺が、承太郎たちを倒すつもりだが、」
そう前置きして、ンドゥールさんは話し始めた。ジョースターの血を継ぐものがDIOさまを探し始めたと聞いてから、もうしばらくになる。きっとンドゥールさんの前にも、誰かが戦っているはずだ。じわじわと真綿で首を絞められるみたいな、嫌な予感しかしない。けれど彼には「行かない」なんて選択肢はないのだ。だって、DIOさまに仕えることがンドゥールさんの生きる意味だから。
「もし、万一にもここに奴らが来ることになったら、」
「そんなこと、言わないでください」
ここにジョースターが来るということは、ンドゥールさんが死ぬってことだ。たとえ私の心が今、不安で一杯だったとしても、必ず勝つと言って欲しかった。そうして、その独特な足音を響かせて、またここに戻ってきて欲しい。
泣きそうな私の気持ちを知っているのか、彼は何も映さない瞳を私に向け、言い聞かせるみたいに告げた。
「その時はななこ、……お前は逃げろ」
「……え?」
てっきり「DIOさまをお守りしろ」とかそういう話になるのだと思っていた私は、彼の言葉に耳を疑う。ポカンとする私に、なおも彼は「逃げろ」と言った。
「……どうして、」
「俺にとってのDIOさまは救世主に違いない。だが、お前には違うだろう?」
なにもかも見透かされているようだった。確かに私は、攫われてここに来て、たまたま殺されなかっただけだ。「一人くらいメイドを置いても良いのでは」と言ってくれたのは一体誰だったか。なにも見えない暗闇で泣き暮らすのはだめだと教えてくれたのは、間違いなくンドゥールさんだけど。
「私にとっての救世主は、ンドゥールさんです」
だから、帰ってきてください。
私がそう言うと、彼は困ったように笑った。「おれはそもそも、死を恐れてなどいない」と、いつだか言った時のように。
「……もし逃げ出せたらその時は、光の中を生きろ」
そう言ってンドゥールさんは私の髪を撫でた。お日様の下に戻れたとして、救世主を失った世界には、光なんてないのに。
「……わたしは、ここにあなたといたいです」
「……すまないが、おれは行かねばならん」
腕を引かれて、そのまま胸に抱き締められる。私のうるさい心臓の音は、きっと聞こえているに違いない。
「もし、次に会えたら。……その時はお前の黒髪も、黒い瞳も、すべておれのものだ」
「……え、ッ……?」
言葉の意味がわからずに顔を上げると、柔らかな唇が降って来た。一瞬の感触を残して、ンドゥールさんはまた、いつもの調子で続ける。
「……心配するな、大丈夫だ」
「……ッ…………」
私の髪や瞳を、彼が見ることができるなんてあり得ない。『戻って来る』と言わなかった彼の『次』は、きっとお伽話よりも曖昧な未来の話だ。
そんなことを言われたら、どうしたって頷くことなんかできない。せめて、せめてこの涙が気付かれないように、私はぎゅ、と拳を握りしめて、彼に告げた。
「……いってらっしゃい」
20180220
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bkm