「始祖ソンブレロ、貴方は罪を犯しました」
○
灯油の上を流れる火のように、混乱はすぐに屋敷中に広がっていった。
「シエダル様! 誰か、誰か!」
響き渡る切羽詰まった女性の声。喉をかっ切ったように引き裂かれた青年は、痙攣しながら白目を向いていた。その目は窓の外を見ているようだが、この混乱の中そんな事を気にする者はいない。
悲鳴のような叫び声を聞き付けた執事は惨状を見て慄然とし、躊躇して足が止まった。
血塗れで倒れているのは執事の雇い主である旦那様の子息だった。外傷は喉だけのようだが、鮮やかな赤が白いブラウスと床に広がっていく。彼を見つけたであろう使用人の女は、自身も血だらけになりながら彼の頭を膝の上に乗せて叫び続けていた。
執事は慌てて彼に駆け寄り、自分のナプキンで喉を軽く絞めるが果たして効果があるかどうかは判らない。
「いったい何が」と執事は考えるが、刃物も見当たらず、開け放たれた窓から湿気を含んだ風が柔らかく入り込んでくるだけだった。
数分後、満足な治療も蘇生も出来ないまま、最期に数回ひゅうひゅうと呼吸らしいものをしてから、彼は息絶えた。
他の使用人や家族が駆けつけた頃には既に絶命しており、そのあまりの惨状を目にして次々と泣き崩れた。
○
ノヴァは逃げるように屋敷をあとにして森へと向かう。幸いなことに誰にも気づかれず、見慣れた道をただひたすらに駆けた。
始祖の城まであと少しと言うところに墓場があり、そこまで走ると彼女は足を止めた。あたりに黒い霧が広がっていたからだ。黒い霧は始祖しか操れない。
「ソンブレロ!」
ノヴァは霧に向かって愛しい者の名前を叫ぶ。ここまで全速力で走ったことで息は上がって、縋るような声になっていた。
程なくして黒い霧が晴れた瞬間、彼は彼女の前に姿を現した。
ノヴァは彼の姿を確認すると駆け寄り、手を取り、顔を見た。
「ソンブレロ、良かった」
「ノヴァ、もうこれ以上私と関わってはいけない」
ソンブレロの両の手は血で染まっており、右腕は肘の辺りまでそのブラウスを赤に染めていた。鎖骨から顔の側面にも、ぶちまけたような状態で血が付いている。ノヴァはそれを気にすることもなく、必死に首を振った。
「私はいつまでも貴方と共にあります」
「私は、君の婚約者を殺してしまった」
ソンブレロの力無い一言にノヴァは一瞬怯むが、それでも首を横に振る。
「私が生涯愛するのは貴方だけよ、ソンブレロ」
ノヴァは説き伏せるように、ぬるりと滑る彼の手を握りしめ、その唇に自分のものをそっと押し当てる。ソンブレロの表情は暗く、まるで絶望でも感じているようだった。ノヴァはその顔に手を伸ばす。
「私といてはいけない」
「何故?」
ノヴァが消えるように小さな声を出すと、二人の頭上に白い光が差す。
ソンブレロはノヴァを庇うように抱き上げ、光と距離を置く。ノヴァは訳が解らぬままに、離れまいと彼にしがみついていた。
やがて光からは一人の人間が姿を現した。それはたしかに人の形をしていたが、全体がぼんやりとはっきりとせずにいて確証は持てなかった。解ることは、これは人間ではないと言うことだ。
「始祖ソンブレロ」
飼い猫がつけている鈴の音色のような声だった。小さく、それでもはっきりと、何かは頭の中に直接語りかけてきた。混乱しているノヴァに対し、ソンブレロはどこか覚悟を決めたような表情をしている。
もう一度、声が頭に響いた。
○
薄暗い城の中、男はゆっくりと目を開く。視界に入るのは霧深い森と、その中に忘れられたようにひっそりと佇んでいる墓地。窓のすぐ下にはかつては立派だった花壇があるが、今はもう見る影もない。全てが灰に染まり、他の色は一切無い。
「まるで私だ」
男、ソンブレロは呟くと腰かけていたテーブルの上にある鉢植えに目をやる。今はもう枯れて土も干からびてヒビが入ってしまっているが、彼はこれを捨てることはしなかった。
世界と同じように灰色に染まったそれを愛しそうに撫で、もう一度窓の外を見る。
広大な大地には人間が次々と産み出され、死んでいく。変化を嫌う世界は人間を滅ぼそうとは思わないだろう。
不意に部屋中に黒猫や鼠、蝙蝠などが集まってきて、ソンブレロは視線を感じる。ゆるりと振り返れば、そこに立っていたのは彼の同志達だった。
「梟も鳴かない、不気味で素敵な夜だわ」
「早くしよう。僕もう待ちくたびれちゃったよ」
赤いドレスの女性と無邪気に笑う少年が催促するようにソンブレロを見る。他にも十人ほどの男女が同じように彼を見ていた。
ソンブレロはゆっくり立ち上がり、それらの人を一瞥すると再び窓の外に目をやる。
「憎しみを背負え。悲哀も情も捨てろ。絶望と杯を交わせ」
ソンブレロは独り言のように言葉を紡ぐと、一瞬で黒い霧へと変貌した。
他の者も融けるように霧散していった。
○
今から数百年前、始祖と恋に落ちた人間の女がいた。彼女は聡明で花のように美しかった。しかし、突然姿を消した彼女の行方を知るものは一人も存在しなかった。彼女は次第に忘れ去られ、その存在はほとんど消えかかっていた。
「ノヴァ」
女の名前を愛しそうに呼び、墓の前で佇む男がいた。顔は真っ白で痩け、かなり衰弱している様子だ。男はただ名も彫られていない墓の前で女の名前を呼ぶ。
「ノヴァ」
それはまるで、呼び掛ければ「ノヴァ」が目を醒ますと信じているかのように。
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神様の独り言 2010.7.1
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