不思議で仕方がありません。人は人を求めるもの。不思議で仕方がありません。求めずただ、見つめる瞳が。
○
「今日はよく来て下さいましたねぇ」
薄明かりの座敷で、女は前髪と後ろ髪を高くまとめあげ、顔の両脇にするりとその漆黒を垂らす。首を動かす度に覗かせる後れ毛が彼女の妖艶さを一層際立たせた。
対するは自由奔放に跳ね回る黒髪をそのままに、酒と自慢の紺の長羽織を引っ掻けているだらしない男だ。
「もう二ヶ月も姿をお見掛けしませんで、床にでも伏してしまわれたかと」
「小糸さんは心配性だなあ。俺が病に敗けるわけがないでしょう」
「そうでしたかしらあ」
ふふふ、と口許に左手を当て笑うは小糸。彼女はこの嶋原でも人気の芸姑さんだ。三味線をよく弾いてくれ、酒も強い。
一方自堕落が最高潮に達しているのは古本屋清八の店主、喜六。
金は持たないが彼が嶋原に足を運ぶのは博打で勝ったか、大学の偉い先生からの依頼金が入った時だ。その使いぶりは江戸っ子も裸足で逃げ出す豪快さ。宵越しの銭は持たないをその人生に掲げ、まさしく謳歌している。
「山井先生にお世話になったと他の芸姑から聞きましたけどお?」
「いや、あれはどちらかと言えば養仙さんが俺を殺そうとしたんだ」
「あらまあ」
「喉に饅頭を詰まらせただけなのに疣が喉を塞いでいると騒ぎ立てた」
喜六はそこで一旦猪口の酒をすする。
「お陰ですえちゃんに要らん心配を掛けることになった。養仙は駄目だ。ありゃあ医者じゃない。隣町の藪の方が幾分かましだろう」
「ふふ。藪先生の患者さんも、同じことを仰っていましたよ」
「小糸さんは顔が広い! 隣町からも客が来るのか」
「元々、嶋原はそちらにありましたので。大火でこちらに逃げ延びたのでございます。御存知ありませんでした?」
小糸は猪口に酒を注ぎながら訊ねる。
喜六は嬉しそうに受けとると逆の手で小糸の酌もする。
「俺もこちらに来たのは十年ほど前だが、大火があったのは知らなかったなあ」
「十年では御存知ありませんね。もう、十七年になりますから」
「小糸さん、失礼だが幾つなんだい?」
「女子(おなご)に年齢を訊ねるものではありませんよ、喜六殿」
時に、と小糸は話題を変える。
「すえ殿とは? 初めてお聞きする名前で御座いますね」
嶋原に来ては財布が尽きるまで芸姑と遊び倒す喜六だが、女子の影が見えたことは一度もなかった。嶋原から出ることのできない芸姑は、それぞれの客からの情報を交換している。その羽振りのよさで、嶋原の芸姑で喜六を知らない者は少ない。そのどの情報にも、女子の情報など流れてこなかったのだ。
喜六は不意を疲れたように目をぱちくりと剥くが、すぐにふにゃりと笑みを浮かべる。
「アルバイトですよう。うちの店で二ヶ月くらい前から雇ってるの」
「お遊びは嶋原だけにしてくださいましよ」
「いやだなあ、小糸さん。俺が遊びで女の子をたぶらかすわけがないでしょう」
「あら、それはどういう意味で御座いましょう?」
小糸が手元からじろりと視線を上げる。
喜六はううん、と唸って頭を掻いた。
「俺は古きを愛する自堕落なんだよ」
「……そうで御座いますねぇ」
「古くなっていったものはこの嶋原のように常世の住人なんだけど、前進しかできない人間というのは厄介だねぇ」
「ふふ」
思わず笑ってしまった小糸に、喜六は「どうして笑うんだい?」と酒に酔った顔で訊ねる。
「喜六殿はまるで恋に焦がれる乙女のようで御座いますね」
「こんな親父捕まえて乙女とは、そんなこと言うのは小糸さんくらいですよ」
「喜六殿は不思議な殿方で御座いますから」
「そうですかあ?」
誤魔化したようにふざけた喜六と、それ以上探らない小糸。
微かな笑い声と三味線の音が響き、今宵も嶋原は眠らない。
end
小糸、山井養仙、藪ともに落語から。山井さんと藪さんは町のヤブ医者です。
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神様の独り言 2010.7.1
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