■ 1

わたしの町ではどの家にも必ずアブラゲさまをまつる神棚がある。

アブラゲさまは長生きしすぎて物の怪になった雄の狐である。
昔々は作物や獲物を横取りしたり悪戯したりの性悪狐だったらしいが、本人曰く年を食うに従い落ち着いて、次第に人を困らせることもなくなった。時折里に下りてきては人に「食べ物くれろ」と声をかける。貰う代わりに田んぼを荒らす鳥を追い払ったり、病人を治したりしてくれるので、人はアブラゲさまを見ると喜んで言われるままのものを渡す。たまには貰いっぱなしのときもあるがね、とアブラゲさまは笑った。

子供たちが山の中を探検しているうちに迷子になり、途方に暮れていたところ見慣れぬ青年が村はこっちだと引率してくれた。無事村まで着いて子供たちが礼を言うと、青年は神棚に油揚げを置くのを忘れるなと言って山の中へ引き返していった。村の誰に訊いてみてもそんな青年は見たことがないと言う。あれはアブラゲさまに違いないと、迷子になった子供たちの家々では油揚げといなり寿司を供えて、翌日には山中にあるアブラゲさまの社まで詣ったという。
昔はよく畑の向こうに踊っていたくねくねを追い払ったものだとアブラゲさまは言う。おかげで働き手を失うこともなく、その年は豊作で皆たいそうアブラゲさまに感謝したのだそうだ。どこまで本当かは知らない。

最近の、わたしの知っている話では、このあたりの子供はこっくりさんは危ないからアブラゲさまを呼ぶということ。呼んだ後は神棚にお礼を供えるのを忘れないこと。でないとアブラゲさまが夢に出て、朝になるまで延々と説教をしてくるので眠った気にならないということぐらいである。随分ちゃちな物の怪になったもんである。

お稲荷様と呼ばれていた頃もあったらしいが、稲荷山神社の神に申し訳ないとアブラゲさまが言うので、ではその一段下でと油揚げを呼び名にされた。
家にある神棚には油揚げを供えるのが通例である。別に何を供えたって構わないので、わたしは子供の頃は時折飴玉の余りをそっと置いたりもした。供え物は気がつくと消えていた。

「へえ、ありゃお前だったのか。飴玉くれる家なんぞ他にないよ。いや気にするな。ああ、美味かった美味かった」

煮た油揚げのような色をした立派な毛並みの綺麗な狐が目を細めたのが、微笑んだ顔にしか見えない。わたしはアブラゲさまの社でアブラゲさまと隣合って縁側に腰掛けていた。
アブラゲさまがわたしの母の病を治すために、父に「嫁御をくれろ」と言ったのは十年前のことである。
わたしがアブラゲさまのもとに嫁いだのは、今からふた月前、高校の卒業式のあった日の深夜のことだった。



十年前、父は母の治る気配の見えない病に頭を抱えていた。医者が匙を投げかけているのもなんとなくわかったという。
その夜もいつものように母を見舞った後、帰り道にある公園で父はうなだれていた。夜なので子供の姿はないし、しばらくは虫と蛙の鳴き声くらいしか聞こえなかった。

「なんぞしたかね」

唐突に聞こえた声は若い男と思われる低い声だった。父が顔を上げると目の前に狐がちょこんと座っている。父の顔を伺うように首を傾げる仕草が何ともいえず可愛らしかったらしい。

「妻の病気が治りそうもない」
「金を積んでもだめかね。金がないのかね」
「金を積んで治るならいくらでも積む」
「ではもうだめそうか」
「ああもうだめそうだ」

狐が口を利いたのに悲鳴も上げず会話していられたのは、それほどまでに母の病への絶望が強かったためだろう。
狐はかしかしと後ろ足で蹴るように耳の裏を掻いた。そしてしばらく宙を眺めて黙った。まるで何かを真剣に考えているように見えて父は思わず破顔したらしい。

「儂が治しちゃろうかいね」
「そりゃあいい。いなり寿司でも鼠でも、いくらでもくれてやる」
「言ったな」
「言ったとも」
「では嫁御をおくれ」
「なんだって?」

父が驚いて聞き返したとき、既に狐の姿はなかった。父はベンチで居眠りでもして夢を見たのだろうと思った。それから母の病気は薄紙を剥ぐように良くなっていった。



半年前、わたしの十八の誕生日の夜、わたしは初めてアブラゲさまの姿を見た。
誕生日にはアブラゲさまの神棚にいなり寿司を供える。それはこの歳まで無事過ごせたことをアブラゲさまに感謝する意味があるとも言うが実際は食卓に出た余りである。
その年もわたしは神棚にいなり寿司を二つ置いた。置いた瞬間ふわふわとした柔らかいものが足に触れた。驚いて足元を見てみれば、綺麗な狐が猫のようにわたしの足にすり寄っていて可愛い。ただの狐でないことは一目でわかった。

「アブラゲさまだ!」
「うむ」

神棚に供えたいなり寿司を取り、差し出すと、アブラゲさまは目を細めて舌なめずりをした。ひとつを手にとって口元へ持っていってやると、アブラゲさまは一口かじってムシャムシャ頬張った。お口に合いますかと訊くと、笑ったような顔で「うむ」と答えた。
狐を間近に見られる機会などそうあるはずもない。動物好きのわたしはうっとりとアブラゲさまの姿に見とれていなり寿司を差し出し続けた。怯えるのは何かされた後からでも良い。

最後の一口をアブラゲさまが口に入れたとき、風呂上がりの父が居間に現れた。
「ギャッ!」と失礼な悲鳴を上げて父はわたしとアブラゲさまの方を青ざめた顔で眺めた。
アブラゲさまもモグモグ口を動かしながら父を見つめ返していた。ごくりと飲み込む音がした。

「久方ぶりだねぇ、奥方の調子はどうだい」

アブラゲさまがそう言うと、父はハッとした表情をして、アブラゲさまからわたしの顔へ視線を動かした。何事かわからないわたしは首を傾げた。
先ほどの父の悲鳴を聞いて台所にいた母も居間に来た。母も短い悲鳴を上げて、しかしこの町の出身であるためかすぐにアブラゲさまだとわかったらしく、アブラゲさまに挨拶をして、わたしに寿司はちゃんと渡したのかと
訊いた。わたしが空の皿を見せると、母は安心したように笑って一度頭を下げた。

「アブラゲさま、触っても宜しいでしょうか」
「うむ」
「あっ」

父が焦ったような声を上げたが、今は父よりもこの美しい狐である。わたしはご近所の犬にするように首の周りを掻いたり背中を撫でたりした。

「いい娘だね、気に入ったよ」
「待ってくれよ、まだ早いよ……まだ十八だよ、まだ高校生なんだ……」

父がおろおろとしているのにわたしと母は眉をひそめた。それに敬語を使わずにいることが気になった。アブラゲさまは土地の守り神である。その土地の者と余所者との認識の違いを肌で感じたような気がした。
アブラゲさまは気にしていないようだった。

「なあに、お父さん、どういうことなの?そもそもどうしてうちにアブラゲさまが来るのよ」

母が父に詰め寄ると、父は俯いて黙ってしまった。代わりにアブラゲさまが十年前父と交わした約束のことを話した。
母は青ざめてわたしを呼んだ。こっちにきなさいと甲高い声を出しながら手招きをする。わたしはアブラゲさまの背中を撫でるまま動かなかった。
アブラゲさまは振り返って、鼻先がわたしの頬に当たるほどの距離で優しく言った。

「嫁においで」

自分の頬にぽっと火がともったような気がした。こんなに優しい素敵な声を持った人をわたしは知らない。
母がすがるようにアブラゲさまの前に座り込んで両手を組んだ。

「この時代にそんな生け贄のようなことは出来ません、お願いしますどうか別の……」
「そんなことを言ったって、儂はそういう約束で病を治したんだ。嫁御が貰えないのなら、あれは無効ということで母御の病はまた現れるよ」

母は一瞬ためらったが、すぐさま首を横に振って出来ない出来ないと叫んだ。アブラゲさまが溜息をついた。

「あたし別にいいけど」

このとき、母の体を思ってだとか、そんなことは一切関係なしに、実際わたしはアブラゲさまの妻になっても何の問題もなかった。
一応大学進学のつもりで勉強はしてきたが、正直将来就きたい職があるわけでもなし、特に深く学びたいものがあるわけでもなし、どうしても大学に進みたいわけでもなかった。
何より、アブラゲさまはとても綺麗だったからだ。
シュッと伸びた細い顎、吊り目だけれど大きくて黒々とした瞳、ふさふさの尻尾、白に近い黄色の毛色。甲斐性のない男と生涯を遂げるよりも、この綺麗な狐と添い遂げた方がよっぽど良いように思えた。まだ十八のわたしにとって、結婚なんて全く現実的ではなかったのだ。

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