■ 稲荷の嫁

わたしはお稲荷様の妻だ。


十八の誕生日の夜だった。
親と夕飯を食べていると、ひゅう、と風が吹き、窓が開いているのかな、と思ったらお稲荷様がちょこんと座っていた。



わたしの住んでいた地域ではお稲荷様の話は有名で、殆どの家にお稲荷様を祀った神棚があった。
しかしこのお稲荷様というのは世間で言われるものとは少し違うらしく、図書館に置かれている地方伝の本を読む限り、神狐というよりも妖孤の気色が強い。
悪戯好きで、人を困らせ、でも伝承に書かれたお稲荷様はなんだかとても可愛らしかった。伝承の時代が進むにつれ、お稲荷様は大人しくなり、人への手助けをすることが増え神狐の扱いを受けるようになっていった。


小さな頃から、わたしはこのお稲荷様の伝承が好きだった。でもわたしの場合、それは図書館の本ではなくお婆ちゃんから聞かされるものであったため、友人たちと話の内容に多少の食い違いがあった。



そしてそのお稲荷様が、どうして家に来たのかというと、十年前に父が母の病気が良くなるようにとお稲荷様の社にお参りに行き、叶える代わりに嫁御をくれろと告げたからだという。

確かに昔、母が長い間入院していて、父が消沈していた記憶はある。
聞くところによると、悪化していた筈の母の病気はそれからみるみる快方へ向かい、予定よりも早く退院できたということだった。


父はおろおろとして、母はいくらお稲荷様でも人間の娘を娶るなんてと、見るからに憤慨していた。
お稲荷様は、



「そんなことを言ったって、そういう約束で儂は病を治したんだ。嫁御が貰えないなら、あれは無効ということで母御の病は再発することになるよ」



お稲荷様の喋り方は、神様というより近所の気さくなお兄さんみたいだった。
母はぎゅっとわたしを抱き締めて、それでも構わないから、この子をそんな生け贄みたいなことにできないと泣いた。



「あたし別にいいけど」



このとき、母の体を思ってだとか、そんなことは一切関係なしに、実際わたしはお稲荷様の妻になっても何の問題もなかった。
一応大学進学のつもりで勉強はしてきたが、正直将来就きたい職があるわけでもなし、特に深く学びたいものがあるわけでもなし、どうしても大学に進みたいわけでもなかった。


何より、お稲荷様はとても綺麗だったからだ。
シュッと伸びた細い顎、吊り目だけれど大きくて可愛らしい瞳、ふさふさの尻尾、白に近い黄色の毛色。
甲斐性のない男と生涯を遂げるよりも、この綺麗な狐と添い遂げた方がよっぽど良いように思えた。




翌日、お稲荷様の嫁になることが決まったから、大学進学はやめると担任に、彼氏には別れると告げた。
先生は昔からこの土地に住んでいる、もうお爺さんの人なので、そうかそうかと目を細めて少し悲しそうに言った。彼氏の方は冗談だと思ったらしく笑っていたが、これから口を利かなくなればまあそのうち理解するだろう。


卒業する頃にはわたしがお稲荷様に嫁ぐということが学校中に広まっていて、友達はみんなそれに反対したし、近所のおばさんたちもおめでたいと言うわりにわたしを見る目が明らかに前と違っていた。もっとちゃんと考えた方がいいわよ、などと無責任なことを言う人もいた。

彼氏はしつこく文句を言い続け、わたしは本当にこんな男に惚れていたのかと恥ずかしくなるほど低俗な言葉でお稲荷様を罵倒した。
お稲荷様に恋愛感情を抱いているわけでは勿論なかったが、既にわたしは彼氏よりもお稲荷様の方が好きだった。
あんまり聞いていて不愉快なので、人の多い廊下で思い切りひっぱたいてそのまま置いていった。
内申を気にしなくていいというのは実に気持ちがよい。





家に帰ると、縁側でお稲荷様がくるんと丸くなって昼寝をしていた。
着替えてからその隣に座り、すぐにお稲荷様は起き上がった。ぐぐーっと前足を伸ばして伸びをして、裂けるように口を開けて欠伸した。



「お稲荷様、わたしこれからお稲荷様に仕えるの?どうすればいいの?」

「馬鹿いっちゃいけないよ。侍女になれなんて誰が言ったかね」

「じゃあ、セックスはするの?」

「なんだって?」

「交尾だよ。するの?」



お稲荷様は後ろ足で首を蹴るように掻いて、必要はないねと言った。
少女漫画だったらお稲荷様は美少年に変身するところだろうが、お稲荷様はずっと狐のままだった。わたしは構わないというか、そっちの方が良かった。だってわたしは狐のお稲荷様に惹かれたのだから。


高校を卒業して、家からお稲荷様の社に移ると、あんまりすることがないので時間はぼんやり過ぎていった。
お稲荷様はお供え物の、大抵はいなり寿司で腹は充分満たされるようだったし、彼に嫁いだことでそれは同時にわたしのものでもあった。

不思議なことに、毎日同じものを食べているのに飽きは一向にこないし、あれが食べたい、これが食べたいという欲も現れなかった。
やはり稲荷の妻になるということは人間と違うものになるということなのだろうか。ぼんやりそう思いながら、いなり寿司をお稲荷様の隣で頬張った。



「何も我慢することはないんだよ。儂に付き合って社にずっといなくても、外に出たけりゃ出ればいい。働きたければ働けばいい。前にも言ったが、お前は儂に仕えてるわけじゃあないんだよ」



お稲荷様がそう言うので、わたしはその言葉に甘えてたびたび社のある山から街へ下りた。
でも必ず日が傾く頃には社へ帰った。
気分転換にはなるし、散歩も楽しいが、やっぱりお稲荷様といたいと思った。そう言ったらお稲荷様はわたしと山の中を散歩するようになった。
寒い夜はお稲荷様を抱いて同じ布団で眠った。


気候が変わり、暖かくなってきた頃、お稲荷様の毛が撫でるたびにたくさん抜けるようになったので、わたしは街に下り、ホームセンターでペット用の櫛を買ってきた。
撫でるように櫛を滑らせると、面白いくらいにお稲荷様の毛がごっそり抜けた。尻尾のあたりは触ると嫌がるので最後までモコモコしていた。
首のあたりに櫛を通すと気持ちよさそうに目を細めるので、わたしは嬉しくなっていつもそこは最後に掻いた。



「お稲荷様は、わたしが死んだら新しい子を奥さんにするの?」

「お前が死んだとき考えることにするよ」



そう言ってお稲荷様はわたしの膝を枕にしてごろんと寝転んだ。



別にわたしじゃなくてもいいじゃないか。他の誰でもできることばかりじゃないか。
でも、わたしにしかできないことばかりだったら、お稲荷様はわたしが死んだとき可哀想だ。



わたしは確かにお稲荷様を愛していた。
きっとお稲荷様だってわたしを愛してくれている。
でもそれが普通の夫婦と同じ愛かと言ったら、それはどうなんだろう。
そもそも普通がどういうものなのか、お稲荷様以外の人と結婚したことがないわたしは知らないし、お稲荷様はお稲荷様だから普通の人間と根本的に違う。



お稲荷様の頭が私の膝からずり落ち、私は櫛を取りに立ち上がった。

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