■ うさぎの泥船

11のときだ。初めて料理を作ったとき、手伝うからと隣に立っていたあいつはフランベとか言ってフライパンに酒を入れてきて、目の前に燃え上がった炎に驚いたオレは手を火傷した。

あれは14のとき、部活で転んで、腕を擦った。保健室に行く途中、あいつが家庭科室から顔を出して、いい薬を持ってると言うから腕を突きだしたら辛子味噌を塗り込まれた。



「うささん、うささん」

青い海の上。エアーベッドに寝転んでぷかぷか浮いているとすぐ脇をうささんが泳いでいった。うささんはそこらへんで遊ぶ女の子たちみたいにバチャバチャ波を立てたり、大騒ぎしてはしゃいだりしないで、黙ってすーっと流れるように泳ぐ。
オレが声をかけるとうささんは止まってオレの方を振り返った。三日月と波の模様の水着が、海の中で歪んで見える。

「なあに、たぬきさん」
「何処まで行くの」
「もっと人がいない、広く海を使える所まで行くの」
「そりゃいいや。オレも行こう」
「いいわ。浮き輪があった方が安心だしね」

オレはエアーベッドから降りて、その紐を引きながら泳いで彼女の後をついて行った。暫く行ったところでうささんは岩陰を指さし、それきりオレを振り返らずまっすぐ泳いでいった。

「あんまり沖に行くのは嫌だよ」
「臆病ね。たぬきさんは昔から」
「そんなことないよ」
「じゃあもうちょっとだけ先へ行きましょうよ。誰も見えない所がいいの」

うささんはオレの返事も待たずにすぐに泳いでいってしまった。ここまででオレは大分疲れてきていたけれど、ここまできて置いていくことは出来ないから、少し意地にもなって後を追った。
本当に人が見えなくなるまで進んで、とはいえ今日は平日だし日も沈みかけてるから元々人はそんなにいないんだが、うささんはやっと泳ぐのをやめた。
立ち泳ぎをしながらオレの方を振り返って、うささんはにっこり笑った。

「乗れよ」

いつまでも立ち泳ぎしてるわけにいかないから、オレはそう言ってエアーベッドをぽんと叩いた。けれどうささんは笑って首を横に振った。
そんならオレが乗っていいか、もうクタクタだ。お前と違ってオレは朝から海で遊んでるから。そう言うと、うささんは可笑しそうに笑って何度も頷いた。

「たぬきさん、わたし、あなたといるのが大好きよ」

バランスを崩して海に落ちた。疲れてるせいかもう一度エアーベッドに上るのにあんまり体が重くて苦労した。
ようやくエアーベッドに座り込むと、うささんはくすくす笑いながら近づいてきて、そっとベッドに片手を置いた。長い睫毛の向こうから上目遣いにオレを見つめてくるのは、子供の頃からのこいつの癖だ。

「でも、すごく不安にもなるの。たぬきさんが心配なの」
「どうして」
「だって、たぬきさん、わたしが何を言っても信じてくれるでしょう?初めて料理をする子供がフランベなんて無茶に決まってるわ。怪我に辛子味噌なんて塗ったらきっととっても痛いわ。知らないわけないじゃない。こうやって貴方を見上げながら話すのも、貴方がこうすれば何も言えなくなるって、わたし知っててやってるのよ」
「なんだと?」
「ほら、やっぱり信じてくれてたのね。わたし、たぬきさんのそういうところ大好きよ。大好きだから、大好きすぎてついもっともっとってなるのよ。でもね、他の誰にもそうなのかしらって思ったら、心配で心配でたまらなくなるのよ。いつかとってもひどいことをされてしまうんじゃないかって」

うささんは悲しそうに俯いてそう言った。
オレが黙っていると、うささんは今まで海に浸けていた左手を上げた。その手には、銀色の小さな針があった。

「おい、なんだそれ。何考えてる?」
「今も、そう。誰もいない沖まで泳いでいったら、危ないに決まってるじゃない」
「おい、おいうささん?」
「誰かにひどい騙され方をして、たぬきさんが悲しむくらいなら…。そんなことになるくらいなら、わたしがって思うの」

そう思うくらい、たぬきさんが好きなのよ。誰にも渡したくないの。

ぷつんと小さな音がして、針がエアーベッドに突き刺さった。



「たぬきさん、たぬきさん」

目を覚ましたとき、オレはうささんの膝に頭を置いて、波打ち際で寝転んでいた。日は沈んでいて、周りに人影はなかった。

「起きたの?」
「起きたよ」
「じゃあ、帰りましょう」
「うん」

オレは立ち上がり、上着をうささんに着せて海から離れた。うささんは嬉しそうに笑いながら、火傷の痕のあるオレの右手を引いて手を繋いできた。
そのままオレの肩にうささんは頭を預けるようにぴったり寄り添って、幸せそうに微笑んでいた。

「たぬきさん、わたしね、」

うささんの肩越しに、沖合を空気の抜けたエアーベッドが漂っているのが見えた。

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