浜辺から疾走してきた黒馬は、林の中に飛び込むと速度を落とし、今はのんびりと歩いていた。
馬上にいる男は辺りを見回し、魔物の気配がないことを確認してから、ぐったりと馬の首に崩れ落ちている女に声をかけた。


「おーい、大丈夫か」
「……なんであんな無茶なことしたのよ」


海で見た魔物の大群はやはり二人を追ってきたものだった。ジルは馬に乗って逃げるものだと思っていたが、馬はあろうことか魔物に向かって走っていった。何事かと混乱しているうちに馬は魔物を何匹も蹴り倒し、前足を高く掲げて嘶いた。ウルフが魔物たちを挑発して後をついてくるよう促してから、再び馬を走らせた。
さんざん追いかけ回された挙げ句、魔物の数を少しずつ減らしながらようよう林の中へ逃げ込んだ。
怪我はないものの心労計りしれず、ジルは馬の首にもたれ掛かって一言も口を利かずにいたのである。


「海に魔物を残しとくわけにいかんだろ」
「それもそうだ」
「兎さん聞き分けいいなあ」
「聞き分けは良くても心は広かぁないよ!」


ジルは勢いよく起きあがり、腰を捻ってウルフの方を振り返った。


「あんたはいいかもしれないけどあたしは兎よ!女よ!魔物となんか出来る限り関わりたくないし戦えやしないし、ずっと塔の中にいたから逃げるのだって慣れてないんだよ!避けて通るならまだしもあんな正面からつっこんでくのなんか何度もやられちゃたまったもんじゃないってのよ!」
「まぁそんな怒んなよぉ。東の森には三日もありゃあ着くからさぁ」
「三日?」


ヒステリックに喚きたてていたジルの表情と声がハタとおさまった。
東の森の入り口に建てられたウィアウルフの塔から南海の浜辺までは七日かかったはずだ。
「なんでそんな早いのよ」帰りはその半分以下の日数だというのは一体どういうわけか。


「行きはわざとトロトロ歩いてたから」
「なんでよ」
「魔物が追いかけて来やすいように」


ウルフの回答にジルは一度眉をひそめたが、先ほどの会話を思い出し、すぐに合点の行った顔をした。


「東の森に魔物が行かないように?」


ジルが訊ねるとウルフはふっと口角を上げた。狼の満足げな笑みを見ると、ジルは正面を向いて座り直した。
納得してしまったものは仕方がない。後は家まで送りとどけてもらうだけだ。

二人の会話を、木の上にじっと佇んでいたインプが聞いていた。翼の生えた痩せぎすの小鬼は、ゆっくり進む黒馬を見送って木上から飛び立った。




林道の端で、ハインリヒが切り株に腰掛けて本を読んでいた。脇に置かれた果物籠に入った林檎や野いちごが瑞々しく輝いている。
魔物の羽音が近づいてくるのに気づくと、ハインリヒは顔を上げた。
インプはハインリヒの傍近くに降り立ち、慣れない様子でひれ伏した。ハインリヒは獣人たちについてを話すインプの報告を相槌を打ちながら聞き、報告が終わると銀貨と一緒に瑞々しい林檎を二つ渡して、インプに礼を言った。インプは嬉しそうに笑いながら、それらを受け取って飛び立っていった。

一人になったハインリヒは、腕と足を組んで林の奥を睨むように見つめた。眉間にしわを寄せ、子供らしからぬ様子で考え込む彼の元へ、ミノタウロスがのしのしと歩いてきた。
ハインリヒは目の端でその姿をとらえると、首をひねって彼の方を見た。


「協力はして頂けそうですか?」
「無論!私が声をかければ同胞たちはいかなるときでも手を貸してくれましょうぞ!」
「それは頼もしい」


ハインリヒは目を細めてミノタウロスに微笑みかけた。しかしその瞳は冷たく、馬鹿にしたような眼差しをしていた。単純なミノタウロスがそんなことに気づくはずもなく、得意げに腰を手を当てて堂々と胸を張っている。

ミノタウロスはハインリヒに命じられ、なるべく多くの魔物を集めて獣人に襲いかかる準備を始めていた。
強さは問わない、ただ数は多くというハインリヒの注文を受け、とりあえず出身の村に戻って同胞たちに声をかけてきたらしい。


「東の森に入られては厄介です。森の戦士は屈強で、地の利があります」
「しかしあのワン公一匹のためになぜそんなに数が必要なのですか」
「魔王様の使いならばそれくらい用意できて当然でしょう」


しれっと返され、ミノタウロスは少しきまりが悪そうにしたが、「魔王の使い」というところには満更でもないようだった。
ハインリヒはその様子を見て口の端で笑った。いかにも魔王の側近らしい、意地の悪そうな笑顔だった。
ハインリヒは本と果物籠を掴んで立ち上がった。


「私はまた城へ戻ります。明日の夜に決行しますので、皆様にそう伝えておいてください」




魔王城に戻ったハインリヒは、いつものように居眠りグリフィンに門を開いてもらって中に入った。
中庭では他のメイドたちに混じって小さなエルザが洗濯物を干していた。白いシーツの隙間から黒い装束が歩いていくのが見えて、エルザはシーツをかきあげてハインリヒの姿を認めた。


「あら、ハイン様。おかえりなさいませ」
「おや、エルザ。ただいま戻りました」


ハインリヒもエルザの姿を視認すると挨拶を返して、他のメイドたちにも「お疲れさまです」と声をかけた。
三つ目のメイドがエルザに目配せして、エルザがそれに応えるように「すぐにお茶をお持ちします」とハインリヒに言って微笑んだ。
歳の近いハインリヒとエルザは仲が良く、魔王も見目の好い二人が共にいることを気に入っていた。魔王と魔王の側近になるべき魔物に媚びる意味も込めて、メイドや執事たちはハインリヒの世話をなるべくエルザにさせようとしていた。


「お部屋にお持ちしましょうか。それともテラスに」
「部屋までお願いできますか」
「はい、かしこまりました」


礼儀正しい子供が二人、互いに頭を下げ合った。ハインリヒは他のメイドたちにも会釈して、庭を通って城へと歩いていった。




「東の森のことはどうなりましたの?」


エルザは紅茶のカップをカートからテーブルへ移しながらハインリヒに訊ねた。ハインリヒは本を閉じ、紅茶を注ぐエルザの傍らの椅子に腰掛けた。


「明日の夜に狼を襲撃する予定です」
「あら、では準備においそがしいのではなくて?」
「ミノタウロスが仲間を集めてきてくださるそうですよ」


言いながら、ハインリヒは昨日のことを思い出した。


「明日の夜!?今戻ったところなのにすぐまた行ってこいと!?」


明日決行すると告げた瞬間のミノタウロスの抗議は耳障りなほど大声で、ハインリヒは顔をしかめた。その抗議に対して、不満があるようなら協力はしなくても良いが、代わりに二度と魔王ならびに魔王城の者の前に現れず、名前も口に出すなと答えた。
途端ミノタウロスは青ざめて、すぐに村に戻って軍勢従えて馳せ参じると言ってひざまづいた。「それは頼もしい」と言いながら、ハインリヒの心は冷めていた。
魔王の配下となることは、力がすべての魔物にとってはとても重要なことであった。それはわかっているが、魔王に取り入ろうとするばかりにこんな子供に必死にすがる屈強な魔物の様子は、幼心にひどく滑稽に思えてならなかった。
明日の黄昏時この切り株で落ち合う約束をして、ハインリヒとミノタウロスは別れた。



エルザはハインリヒの紅茶を注ぎ終え、胡桃のクッキーとスコーンの皿をテーブルに置いた。それから自分の紅茶を注ぎ、ポットを脇に置いてようやく椅子に座った。


「ハイン様はなにかご準備なさるようなことはないのですか?」
「別に。野宿すんのが嫌だから戻ってきただけです」
「移動魔法は便利ですねぇ」


エルザが感心したように何度も頷いた。エルザはドラゴンの血が混ざっているとはいえ魔法に関してはからきしで、初歩的なものさえ使えない。
ハインリヒは胡桃のクッキーを一口かじって、少し苦いと思った。魔王は甘いものが嫌いなので、城で作られる茶菓子も少し苦めのものが多い。魔王が食べるもの以外は、それぞれの好きにすればいいものをと思った。


「明日はとても大事な日になります」


半分が残ったかじりかけのクッキーを手に持ったままハインリヒがそう呟いたので、エルザは紅茶のカップを置いてハインリヒの方を見た。


「私が魔王様の側近になれるかどうかの最初の試練です」




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