猶予はあとどれくらい
昼にみんみんとやかましく騒いでいた蝉の声はいつしか消え、代わりに夕方から鈴虫が鳴くようになった。
世界の殆どはこの虫の音も蝉の鳴き声も同じ雑音にしか聞こえないのに、ある島国の人間にとっては秋の虫の声は一種の音楽なのだと聞いたことがある。
そう思って耳を傾けてみれば、合唱に聞こえないこともない。しかし、言われなければ気付かなかったというのも事実だ。
「音、外れた」
ヴィオラは毛づくろいをやめ、ソファに寝転がる教授に目を動かした。教授は薄い毛布を腹にかけ、目を閉じていた。口さえ開かなければ、ヴィオラは彼が眠っていると思っただろう。
鈴虫の鳴き声が高くなり、一匹だけ目立って違う音を出すと、彼は「ほら、また」と言って僅かに口角を上げた。
この男にも音楽に聞こえるのか。
この男がその島国の話を聞いたことがあるのかどうかは知らないが、あまりに当然のように『音』と表現するあたり、どちらにせよ馴染んだ考えなのだろう。
リーン
合唱から外れて一匹の鈴虫が鳴いた。
猫はそれを気にも留めず毛づくろいを再開したが、男は不思議そうに首を傾げた。
「これは…先導してるのか?それともただ間違えただけなのか」
「どうでもいい」
ヴィオラは前足を噛むようにして爪を整えると、教授の腹の上に乗った。教授が背中を優しく撫でると、猫はざらりとした舌で彼の頬を舐めた。
珍しいその行為に教授は驚いて目を丸くしたが、黒猫は気持ちのよさそうに目を閉じて、眠りに入る態勢になった。
秋は虫がうるさい。
けれどすぐに消えてしまう。
そのせいか寂しさを増す。
ゆっくりと波打つ教授の心音を子守唄に、ヴィオラは眠った。
いつか、これも消える。
自分よりも早くに。
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