後ろで一つに括っていた髪ゴムが緩み、結い直すために解くと強い風が吹いて、長い髪が鬱陶しくバサバサと流れた。十六夜 衣束は不愉快そうに顔をしかめて、肩甲骨まで伸びた細い髪をそのままに大股で歩いて行った。
十六夜は華奢で端正な顔立ちをしているせいで、男物のスーツにネクタイを締めていることを除けばまるで女性だった。

十六夜は幕廷の門をくぐり、敷石の上を歩いて行った。敷石はいくつも分かれ道があったが、進む道はもう体が覚えているようだった。彼が踏む敷石は幕廷の敷地の端へと進んでゆき、着いた先は林に囲まれた、白い角張った建物だった。

鎮圧軍の玄関の扉を開くと、もう風がないので十六夜は髪を括った。ネクタイを緩め、疲れた声で溜息をつくと、大きな犬が心配するように彼の顔を覗き込んできた。


「おう、セルバンテス三世。ただいま」


十六夜がそう言って頭を撫でてやると、犬は千切れんばかりに尻尾を振った。







「黒川」


黒いタンクトップに灰色の短パン姿で仮眠室のベッドに横たわっていた今宵は、十六夜に声をかけられるとすぐに目を開けて起き上がった。玄関からずっとついてきたらしいセルバンテス三世が、寝惚け眼の今宵の顔を舐めた。


「冷たい奴だな。三世は出迎えしてくれたぞ」
「あー…お帰りなさい」


寝癖のついた髪を手櫛で梳きながら、今宵は掠れた声で返事をした。衣束は特に気を遣う様子もなく着ていたスーツを脱いで着替えだした。


「隊長と荘一は?」
「隊長は遅番で、荘一はお使いに行って貰いました」
「そうか」


桐の箪笥に入れて置いた着物に袖を通し、乱れを整えると衣束は仮眠室を出た。今宵がまたベッドへと倒れると、セルバンテス三世が今宵の顔の方へ回ってベッドの上に顎を乗せた。


「おい黒川、なんだあの書類の山は」


うとうとしかけた頃にまた衣束が仮眠室の戸を開けたので、今宵は眉根を寄せた。今宵は寝付きが悪いので、眠りを邪魔されるのをひどく嫌う。


「いや悪いけど。なんであんなに溜まってんだ?」
「翡翠さんが入院してるのでその分が回ってきたんです」
「翡翠?薊翡翠か?翡翠ってどっちだ」
「第壱の兄貴の方です。関西弁の方」
「ああ。他は」
「隊長名義で提出するやつです」


今宵が「あと一時間だけ静かにしていてください」と言ってベッドに潜り込むと、衣束はすぐに仮眠室の戸を閉めた。
疲れた様子の後輩の姿を見て、衣束は自分の報告書をまとめた後も仕事が山積みであることに落胆した。衣束は一度溜息をつくと、何か甘い物が欲しくて戸棚をあさった。
何もない。ああそうか。だから荘一がお使いに出されたのか。衣束は仕方なく、小隊室を出て休憩室へ向かった。







「あっ!アニキ!お帰りなさーい」
「アニキお疲れっす!」


休憩室には猫と犬と、時雨と詩臣しかいなかった。


「なんか甘いもんくれ」
「えー今なんかあったかなあ。あっ、ガトーショコラありますよ」
「食っていいのか?」
「箱に『惣次』って書いてあるから平気ですよ」
「平気じゃねーじゃねえか」


衣束はソファに深く座り、小さく舌打ちした。子猫が一匹衣束の膝に座り、撫でるのを急かすようににゃあと鳴いた。
詩臣が棚から大入りのチョコを見つけ、個包装のものを三つ掴んで衣束に差し出した。衣束は片手で子猫の背中を撫でながらそれを受け取り、懐にしまった。


「食べないんですか?」
「犬に取られたら困るだろ」
「じゃあ小隊室戻ったらいいじゃないですか」
「猫が膝にいるだろうが」


子猫が満足そうに一声鳴いて、衣束の膝の上で丸くなった。安心しきった顔で気持ちよさそうに眠る子猫を見ていた衣束が、にわかにまどろみ始め瞼を何度も上下させた。


「アニキ、眠いんすか」
「二日寝てない。もう眠い。寝る。ここで寝る」
「アニキがいいなら別にいいですけど…」


詩臣が何やら含みのある返事をしたが、衣束は構わず目を閉じた。子猫の可愛らしい寝息が聞こえる。しばらくはそれを聞きながら、気持ちよく夢の世界に入っていける気がしていた。


「時雨コラァアア!オレのガトーショコラ食うなよ!!」
「食ってねーしまだ蓋開けただけだし」
「今まさに食うとこだったんだな!?危ねえ!油断も隙もねえな!お前の分はちゃんと買ってやっただろうが!」
「え?知らないよ」
「え?」
「え?」
「箱にもないよ」
「…誰だ?」
「食ったの誰だ!?」



時雨が惣次と一緒に休憩室を飛び出し、ダカダカうるさい足音を立てて廊下を走っていった。時雨から渡されたケーキ箱を抱えた詩臣が、衣束に向かって一言言った。


「そろそろ第弐が帰ってきますから、多分また一悶着ありますよ」
「誰だよ食った奴…」


衣束は不愉快そうにそう呟くと、子猫を抱いてソファから立ち上がった。そのまま小隊室まで戻り、途中でセルバンテス三世とすれ違った。
黒川はまだ寝てるだろうし、小隊室のソファで寝ることを決めた。仮眠室にはもうひとつベッドがあるが、しかし異性の後輩と並んで寝るのはやはり気持ち悪い。

そう思って小隊室の扉を開けたが、今宵はいつも通りの黒い着物に着替えて仮眠室から出ており、床に座り込んで白い犬を撫でていた。


「起きたのか?」
「目が覚めてしまったので。もう起きます」
「そうか…。悪いな」
「いいえ。別に」


他の女だったら嫌みに聞こえる会話も、こいつの場合は全くそういうふうには聞こえない。かといって優しげなわけでもない。黒川にとってはどうでもいいことだっただけだ。


もう九月に入り季節が夏から秋へ移ったとはいえまだ残暑が鬱陶しい。それなのに黒川はホメロスに顔をうずめて抱き締めていた。
ホメロスはグレートピレニーズとかいう鎮圧軍で飼ってるもんの中で一番でかい犬だ。ただでさえ毛皮被ってるんだからこいつも暑苦しいだろうに、あろうことか尻尾を振っている。

黒川はいつも黒い着物を着てくるくせにこうして犬や猫に構うせいで毛だらけに白くなっている。ただそれはこいつに限ったことではなく、鎮圧軍には誰が拾ってくるのか知らんが犬やら猫やらであふれ、殆どの隊員が甲斐甲斐しく世話をする。
医療機器のある第漆の奥の部屋、精密機械を置いている第玖は別として、その動物たちは鎮圧軍中を好き勝手に歩き回っていた。我が第拾小隊を始め、小隊室の入り口の戸にペットドアをつけているところさえある。


小隊室の窓は全開にして網戸を閉めてあった。風は弱く、暑い。まあ寒いのよりはずっとマシだ。黒川は犬の腹を枕に、抱きつくような姿勢でうつ伏せになっていた。小隊室に他には誰もいなかったために、オレは仮眠室に入ってすぐにうとうとし出した。
まぶたが上下してくると、廊下からバタバタと騒がしい足音が聞こえ、荘一が勢いよく部屋の戸を開いた。


「新しいお友達のシェリルたんでーす!みんな仲良くしてね―!」


オレは閉じかけていた目を開いてベッドから起き上がった。
仮眠室の戸を開けると、荘一がぶっといニシキヘビを首に巻き、愉しげに笑っていた。オレたちに見せるようにそのニシキヘビの首を持ち上げ、チロチロと舌が蛇の口から出たり入ったりした。


「お帰りなさい副隊長!良かった帰ってきて!一目惚れしちゃって早くみんなに見せたかったんだー!」
「いい女だな。高かっただろ」


荘一がソファに座るオレに近づいてきた。シェリルとかいう可愛らしい名前をつけられたニシキヘビは随分大人しく、頭を撫でてやると目を細めた。気持ちよさそうに見えるのは人間の錯覚かもしれないが、それでもそう見えるのは嬉しいもんだ。


「ほらホメロス!新しいお友達だよ!」
「やめてよ。あんたが来てからずっと震えてるから」
「えぇ〜」


黒川にそう言われて荘一は唇を尖らせた。ホメロスは目を丸くしてシェリルを凝視したまま固まっていた。荘一は買い物袋を机に置くと、すぐにいつもの悪戯好きそうな笑顔に戻り「じゃあみんなに自慢してこよーっと」と鼻歌を歌いながら小隊室を出て行った。


黒川はまたホメロスの腹に顔をうずめ、怯えを慰めるためかしばらく顎の下を撫でていた。固まっていたホメロスはだんだんと力が抜けていき、ふうと息をつくと自分の前足を枕にして眠った。
再び小隊室は静かになり、オレはソファに横になって目を閉じた。






二分後、伊万里平助の断末魔の叫びが鎮圧軍中に木霊した。荘一いい加減にしろ。

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