朝方まで降っていた雨は上がったが、冬の近い十一月の昼は寒いままだった。
鎮圧軍第拾小隊小隊長、三条紅葉は書類の入った茶封筒を脇に、朝廷の廊下を歩いていた。白いワイシャツに締めているのは、葬儀用の無地の黒ネクタイだ。
三条は小柄で色白で、いかにも可憐な様子の華奢な身体をしているが、表情と姿勢が常に凛としている。
「三条さん」
背後から声をかけられ、三条は足を止めて振り返った。
「ああ、明智さん。おはようございます」
「おはようございます」
三条が応えると、明智は少し歩調を早めて彼に近づいていった。三条は小柄なので少し顔を見上げて、長身の明智の顔を見る。
明智は三条が封筒を抱えているのを見ると、珍しいですねと言って覗き込むように背中を曲げた。
「そういうのって補佐官さんにお使いさせるものだと思ってました」
「他から色々押しつけられて忙しそうだったもので。それに少し、重要なものですから」
「そうですか。ああ、そうだ。お使いで思い出した」
明智は姿勢を正し、のけぞるように背筋を伸ばした。
「伏見さん、見ませんでした?」
「どうかされましたか?」
「この間、おたくのところに書類を届けに行ってから姿が見えないと聞いたものですから」
「ええ?」
冗談を受け取るときの、薄い笑いで三条は答えた。明智も合わせて少し笑ったが、それが落ち着くと真面目な顔で三条をじっと見つめた。三条は唇を真一文字に戻した。
「私は昨日まで不在でしたから、お役に立てそうもありませんね」
「あ、そうだったんですか」
明智から真面目な表情は途端に消えて、親しげな雰囲気を身に戻す。
明智はきょろきょろと辺りを見回してから、そっと身を屈めて三条の顔に顔を近づけた。
「因みに…何を?」
口元に片手を添え、悪戯っぽく目を細めて訊ねる。第拾小隊の者が外に出るときに、どんな仕事をしているか知っているからこその訊き方だ。
三条は一瞬間をおいて、くすりと笑い、人差し指をたてて唇に当てた。
「企業秘密です」
静かに、しかしふざけるように三条が口角を上げながら言った。明智は「怖いなあ」と笑った。
「ああ、でも伏見さんなら今朝方見ましたので、きっとすぐに会えますよ」
「そうですか。良かった。急ぎの用があったんですよ」
明智は安心したように微笑んで、挨拶をするとそのまま歩いて行ってしまった。三条はその背中を手を振って見送り、姿が見えなくなるとその動きを止めた。
そして誰もいない廊下で、一人小さな声で呟いた。
「ええ、きっとすぐにお会いできますわ。明智さま」
*
灯りのない暗い地下室。虎に驚いて、後退りした。背後から声が聞こえた。凛として透き通った、鈴を転がすような美しい声。
「伏見さま」
暗闇の向こうから、聞き知った声が近づいてくる。灯りが全くない方向にいるので、輪郭がうっすら確認できる程度だが、間違いなくそれは彼女だった。
「伏見さま」
もう一度、椛が名前を呼んだ。
伏見はすぐに声の方に走り、彼女の手を取った。
「どうして君がここに」捕らえられたに決まっている。分り切ったことなので伏見は彼女の返答は求めていなかった。どうやって逃げ出すか。ただそれだけを必死に考えていた。
無意識に椛の白い手を握る力が強くなり、痛い、と椛が言った。伏見ははっとして謝り、顔を上げて初めて彼女が微笑んでいることに気がついた。
「椛?」
「ねえ、伏見さま。初めて会ったときのことを覚えてる?」
今はそんなことを言っている場合ではないと怒鳴りつけてやりたくなったが、頭の中では一年前のあの日の映像が、古い映画のように映し出されていた。伏見は椛に逆らうことが出来ない。
「貴方が素敵な人だったら、名前を教えてあげるって言ったわよね?」
あの日と変わらない笑顔で椛は言った。着物は、あの日と同じ赤い振り袖だ。
椛は伏見の手からすり抜け、一歩下がった。手を背中に回して組み、少し角度を付けて伏見を見つめる。長い睫毛に縁取られた瞳を細め、妖艶に微笑みながら椛は口を開いた。
「もみじ」
「え?」
形の良い桜色の唇が、ゆっくりと開き閉じ言葉を紡ぐ。読唇だけでなんと言っているのか理解できそうなほどだ。そして椛の次の言葉に、伏見は絶望する。
「紅葉と書いて、くれは、と読むの」
その瞬間椛は消えて無くなった。
妖艶な笑みは消えた。弧を描いていた唇は真一文字にきゅっと閉じられ、柔らかく細めていた瞳は冷めた視線で伏見を見下す。
長い髪をハーフアップに括っていたのは、初めて会ったときからずっと付けている紐状の髪飾り。それを解き、下ろした髪が頬に肩に耳にだらしなく絡む。しかしそれが思わず見とれるほど美しかった。
伏見は紅葉を知っている。暴徒のために活動するのなら、鎮圧軍の情報は必須である。小隊長のことならば、尚更。
第拾小隊、別称拷問小隊。小隊長、
「三条…紅葉…」
「ほう、私のことを知っているのに騙されたのか。阿呆にも程があるな」
紅葉が言ったことを反芻する。それはどうだろう。例え椛が紅葉だと知っていたとしても、自分は溺れ続けていたかもしれない。
いや、そうだったに違いない。そしてそうなる愚かな男は、一体どれだけ存在することか。
「簡単に騙されるから、楽でとても助かったよ。お前のような取引相手は実に素晴らしい」
鈴を転がすような声は、地のものは随分と低かった。
深窓の令嬢のような口調は、地のものは随分時代錯誤にじじくさい。
控えめで何処か神秘的な物腰は、地のものは随分と尊大で堂々としていた。
全く違った印象なのに、どちらもしっくりと当て嵌まる。そしてそのどちらも、紅葉が発すれば気品溢れ美しい。
「跪け」
冷たい石床を指して紅葉は伏見に言い放つ。自分の言葉にこの男が従うのは、さも当然といった態度で。
「貴様が知っていること全て話して貰うぞ、伏見。無駄な時間は取らせるな。愚かな貴様と違って、私たちはこれからすることが沢山あるんだ」
*
赤い振り袖は雀茶の着流しに。
腰まで伸びた長い髪は短髪に。
上品な薄赤のふっくらとしていた唇は化粧をしていない今は色も厚みも薄い。
控えめに、しとやかでいた立ち居振る舞いも、床に寝そべっていたせいで着物が乱れているが少しも気にも留めない様子。
しかしそれでも、どうしたことか紅葉にはほうっと見とれてしまうような気品が溢れている。
「お疲れ様」
闇慈が寝そべる紅葉の隣に腰掛け、切り分けた柿を差し出す。紅葉は闇慈に笑いかけ、柿を一切れ楊枝で刺して口に放り込んだ。
「一年がかりね。情は移らなかったか?」
「まさか」
闇慈の問いかけに紅葉は鼻で笑いながら答えた。「酷い奴だ」闇慈も笑う。
「女に騙されるような男に大儀が為せるものか。身の程知らずな男に興味はない」
薄ら笑いを浮かべて当然とでも言いたげに紅葉が言う。闇慈はケラケラ笑った。
「そりゃ、お前みたいな別嬪が本気で相手してくれると思うのは身の程知らずだわなぁ」
「当然だ」
紅葉が仰向けになり、着物が更に乱れた。隙間から覗く白い胸板を隠そうともしない。闇慈も気にした様子はない。
椛は一度も伏見に肌を許したことはなかった。
当然である。
椛は女で、紅葉は男なのだから。
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