頼まれた資料を持ち、伏見は鎮圧軍の玄関の扉に手を置いた。
やはり緊張する。自分たちの標的は幕廷上層部だが、それを叩くための第一の、そして最大の壁はこの鎮圧軍だろう。


「なにしてるの?」
「うわっ!」


驚いて後ろを振り返ると、灰色のウサギのぬいぐるみを抱えた小さな女の子が立っていた。
「おきゃくさん?」と可愛らしく首を傾げ、こちらが頷くと愛想良く笑った。


第弐小隊補佐官 辻ヶ谷雛乃。
話には聞いていたが本当にこんな小さな子供が鎮圧軍なのか。この小さな手が血にまみれることを考えると、伏見はなんとも言えぬ居たたまれぬ気持ちになった。


「ああ、わかった!"伏見"さんね!しょるい持ってきてくれたんだ!」
「はい、当たりです。ええと、じゃあコレ、君に任せていいのかな?」
「だめだめ!ね、あがっていって!」


伏見が書類の入った茶封筒を雛乃に預けようとすると、彼女はその手を引いて玄関のドアを開けた。子供の笑顔というのは、なんと力のあるものだ。


「よいちゃーん!伏見さんきたよー!よいちゃーん!」


雛乃が木履を脱ぎ捨て、大声で呼びかけながら廊下の奥へと消えた。程なくして今宵が玄関口へ顔を出した。


「すみません、お待たせ致しました」


恐縮して今宵が頭を下げ、伏見から書類を受け取った。

白い菊の咲く黒地の振り袖。
鎮圧軍は『常に喪に服す』の意からネクタイは葬儀用の黒ネクタイと決められている。スーツの無い頃、着物の色を黒にしていたことの名残らしい。
幕廷内での洋装の普及からとうに廃れたその習慣を彼女は守っているのだろうか。そう思い、伏見は何処か哀れむような心持ちで今宵を見た。


魂で決まった入隊。転生に最も近い部署。
彼らだってなりたくて鎮圧軍になったわけじゃない。暴徒の解放が一段落したら、次に解放するべきは彼らなのかもしれない。


「伏見さん、実はお頼みしたいことがあるんです」


書類を確認し終えた今宵が顔を上げ、伏見は考え事をしていたせいで大袈裟に肩を跳ねさせた。今宵は少し伏見に顔を近づけ、口元に手を添えて耳打ちするように言った。


「捕虜の発言に気になるところがございますので、証言書をお渡しします。朝廷側に提出して、必要があればご審議ください」


すっと今宵は身を引いて、「こちらへ」と廊下を歩き出したので、伏見は急いで草履を脱いで後を追った。





連れて行かれた先は地下だった。灯りは壁に掛かる燭台だけ。それも殆ど蝋燭が溶けきっていた。


「足元にお気をつけて」


今宵もそう言うだけで、懐中電灯も提灯も持たずにさっさと歩いて行く。
着いた先には暗闇のなかにうっすら、拘束具のついた台、奥の方にごちゃごちゃと何か置かれた棚などが見えた。


「真っ暗だね」
「慣れてない方にはこっちの方がいいんですよ。部屋中真っ赤だから」


今宵がさらりとそう言うので、伏見の背中に悪寒が走った。早くここから立ち去りたくなり、用を済ませてしまおうと証言書について訊ねた。すると


「これから作るんです」


と返ってきたものだから、伏見はひどく驚いた。困惑する彼をよそに、今宵は棚の方へと歩いて行き、その中を探るにはさすがに暗闇が厳しかったらしく小さな行灯に火を点けた。
灯りは棚の周りを照らすだけで、むしろ半端に明るくなったせいで暗闇に慣れた目がまた黒く潰された。

廊下から足音が聞こえ、誰か来たのかと覗き込もうとしたが今宵が戻ってきたので止めた。
今宵の手にはテープレコーダーがあり、「お聞き下さい」と固そうな再生ボタンを押した。


『…これで全員?』
『集まりはいつもこの四人だけ』
『暴徒の仲間もいる。信用させるのに三年かかったよ』


テープレコーダーの雑音混じりに聞こえる自分の声に、伏見は頭の中が真っ白になった。


「何かご意見があるのなら、証言書を作成致しますが、どうされますか?」


今宵は終始無表情に、伏見をじっと見詰めながら淡々と話した。伏見は冷や汗を流し、今宵のその様子にも恐ろしさを感じて焦りからつい早口になった。


「意見と言われても、僕は暴徒に詳しくないからよくわからないね。隊長さんに相談した方がいいんじゃないかい?」
「世直し派の暴徒に手を貸すことは反逆罪になると知っていますか?」
「そりゃあ、幕廷の方針に逆らうわけだからね。なるんじゃないかい?」
「大概にして下さい。この期に及んでまだ誤魔化せると本気で思っているわけではありませんよね?」
「どういうことだい?まさか、声が似ているから、これが僕だと言うつもりじゃないよね?」
「似ているだけだと?」
「当然だろう?身に覚えはないよ。悪いけど、もう失礼させてもらうから」


今宵は黙り、逃げるように去っていく伏見を引き留めようともしなかった。
当然、伏見もこのまま誤魔化し通せるとは思っていなかった。取り敢えずこの場だけは逃げおおせて、仲間に連絡を、いや、誰か裏切ったのか。それとも盗聴か――――


「うわっ!」


角を曲がったところで虎が吠えた。驚いて後ずさると、床に寝そべるその虎をソファのように背もたれにして荘一が座っていた。


「な…、な、」


どうしてこんなところに虎が!

混乱する伏見を見向きもせず、荘一は猫にそうするように虎の喉を掻いていた。ごろごろごろ。虎が飼い猫のように喉を鳴らし、伏見は冷や汗を流しながら少しづつ後ずさりした。

跳ね上がった心臓の音がおさまることはなく、しかし背後から名前を呼ばれたときにはそれが止まるかと思った。





「明智さま!」



初めて連れて行かれた会合の場所。裏長屋地域にほど近い、平民区の奥の路地にある小さな居酒屋の戸を椛は勢いよく開いた。


「川井さま、鮎川さま!いらっしゃいますか!?」


もう会合には参加しないと彼女が言ってからひと月、椛は一度も彼らの集まりに顔を出さなかった。久しぶりに彼らの前に現れた彼女は、青ざめた顔をして、肩で息をしていた。
今まで見せたこともない椛の姿に明智は驚き、心配そうに彼女の手を取った。


「どうしたの」
「それが…」
「あー椛ちゃん?ねえキミ伏見さん知らない?」


店の奥で、並べた椅子の上に横になっていた鮎川が起き上がり、寝惚けた声で訊ねた。椛はますます青ざめ、力が入らないのか明智に体を預けるように崩れ落ちた。


「伏見さま、来てらっしゃらないの…?」
「ああ、川井は今日来られないんだけど、伏見さんが遅くって」
「いつもは早めに来る人なんだけどねぇ」


椛は明智から離れ、血の気の失せた自分の頬を両手で包んだ。寝起きで椛の異常に気づいていなかった鮎川がようやく真顔になり、椅子から立ち上がって椛の近くへ寄っていった。


「昨日、伏見さまはお仕事で鎮圧軍に行ったんです。それで…、そのまま家にも戻られていないそうなんです」


椛を心配そうに見つめていた明智と鮎川二人の目がかっと開いた。視線を椛から互いに動かし、視線がかち合うと明智が口を開いた。


「ばれたか?」
「ひょっとしたら逃げられたかもしれないって、ここで匿われてるかもしれないって、思ったのに…」


椛は顔を手で覆って俯いた。明智は椛の肩を抱き、鮎川が逃げるべきかと言うとすぐに首を横に振った。


「伏見さんならオレたちのことを言ったりしないだろう。逃げたりしたら自分から仲間だと言ってしまうようなもんだ」
「んなこと言ったって…。捕まったらどうするんだよ」
「証拠はない」
「伏見さんの供述さえなきゃ、だろ」


明智が鮎川を睨んだ。鮎川は物怖じした様子は一切見せず、明智以上に荒々しい感情を向けて明智を睨み返した。


「あんたみたいなお坊ちゃんには想像つかんだろうけどな、拷問小隊いうの知っとるか」


明智は明らかに不愉快そうに眉根を寄せて、椛から手を離し、鮎川に向き直った。


「ああ、知ってるさ。鎮圧軍第拾小隊、俗称『拷問小隊』!伏見さんがそんなものに屈すると思えないがね!」
「ガキの噂じゃねえんだぞ!伏見さんやお前みたいなぬくぬく幸せに育った坊ちゃんにそんなもんが耐えられるかって言ってんだ!」
「家柄のことでつっかかるのはやめてくれ!君からしたら贅沢でも、こっちにはこっちなりの苦労があるんだよ!」
「明智さま、話がそれてるわ」


今まで黙っていた椛が突然口を開き、二人が黙った。椛は顔を覆っていた掌をぎゅっと握りしめ、二人に向けて顔を上げた。


「正直わたしは、伏見さまが拷問に耐えられるとは思いません。でも、だからといってわたしたちを売るとも思えません。きっと、もう…」


椛はぐっと息を呑み、居酒屋の中はしんと静まりかえった。
自分はもう会合には出ないと言ったから、これからのことを一緒に話し合う気はない、充分気をつけるようにと言って、椛は店から出て行こうとした。

明智はその細い腕を捕まえ、肩を抱いてまっすぐ彼女の目を見つめた。


「君も仲間だろう?」
「わたしは平気よ」
「どうして」


椛は潤んだ瞳を細めて、人差し指をたてて口元へ置いた。


「秘密よ」


彼らが彼女の姿を見たのはそれが最後だった。


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